第7回コミンテルン世界大会と人民戦線
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「en:Seventh World Congress of the Comintern」も参照 7回目であり最後の大会は1935年7月25日から8月20日にかけてモスクワで開催され、そこには57か国、65の共産党から510名の代表が出席している。会議はファシズム反対、戦争反対の議論に加え、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定している。スポーツ・宗教などの活動にも浸透することが求められた。 主な報告はディミトロフによってなされ、他の報告はパルミーロ・トリアッティ、ヴィルヘルム・ピーク、ドミトリー・マヌイリスキーによった。大会は公式にファシズムに対する人民戦線を承認した。この方針の主張は共産党ならばファシズムに反対する全ての会派と人民戦線をなすこと、及び共産党自身が労働者階級を基盤とする会派との統一戦線を形成することを制限しないことであった。コミンテルンのどの国家の部局からもこの方針に対する目立った反対はなく、特にフランスとスペインにおいては人民戦線政府につながるレオン・ブルムの1936年選挙とともに重要な結果となる。 ゲオルギ・ディミトロフ パルミーロ・トリアッティ ヴィルヘルム・ピーク ドミトリー・マヌイリスキー 統一戦線はコミンテルンの根本政策とした決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中華民国を重用することが記されている(コミンテルン指令1937年、尾崎秀実#諜報活動、『米国共産党調書』、ヴェノナ文書も参照)。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日に日独防共協定を調印した。
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