対中強硬方針への誘導
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「プロパガンダ」、「扇動」、および「心理戦」も参照 評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件(支那事変)が起こると、『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、蔣介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」であるとして酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。また、ソ連による中ソ不可侵条約締結と在華ソビエト軍事顧問団やソ連空軍志願隊の派遣に前後し、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、日中戦争拡大方針を主張した(コミンテルン指令1937年)。11月号では「敗北支那の進路」を発表、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。 こうした主張は、当時「暴支膺懲」の標語のもとで盛り上がった反中感情を扇動し、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与え早期和平を目指したトラウトマン工作も打ち切られた。同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張、また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた(軍国主義)。ただし、尾崎は当時の蒋介石政権(国民政府)の中国と、中国共産党が指導する(後の)中国のあり方を区別しており、前者によって中国が統一されることを好ましく思わず、後者が確立して(革命後の)日本と提携することを望んでいたと考えられる(尾崎秀実の謀略工作)。一方、アメリカ国内においてもソ連による反日工作が行われており、後の対日政策に影響を与えた(「第7回コミンテルン世界大会と人民戦線」、『米国共産党調書』および「ヴェノナ文書」)。これら一連の動きは、日中の講和を阻害し、日本軍を中国に張り付け国力の消耗を狙ったものだった(敗戦革命論)。
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