尾崎秀実の謀略工作
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「尾崎秀実#諜報活動」、「ベノナ#解読で判明したこと」、および「若杉要#『米国共産党調書』発行」も参照 1938年(昭和13年)コミンテルンのスパイ尾崎秀実とそのグループは、三田村武夫によれば「日華事変を長期戦に追い込むために蔣介石との和平交渉を遮断する楔として日本のかいらい政権をつくらせる」目的で、汪兆銘工作を開始した。尾崎秀実の手記より引用する。 昭和十三年春には高宗武が秘に渡日し下相談が進められ松本重治等の斡旋に依り近衛内閣も直接工作に携り松本重治の友人である犬養健、西園寺公一等も直接交渉の常事者として之に参加するに至りました。私は此の工作には直接参加しなかったのですが犬養、西園寺等と友人関係にあることや近衛内閣の嘱託であったことから此の間の情況を屡々耳にし又同人等より此の工作に付き意見を求められて居りました。日支関係は全面的和平の望がなく長期戦の形を取って来るので近衛内閣としては一面蔣介石に対する未練がありながらも汪兆銘工作に力を注ぐこととなり、(以下略) さらに尾崎は対米英戦争長期化を目論んで、「東亜新秩序」建設を主張した。 私の立場から言へば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終るのでは甚だ好しくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであらうとの見透しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を「東亜新秩序」創建の絶対要件であるといふことをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを寵めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾することなく主張される点であります。
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