尾崎紅葉と弟弟子
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鏡花にとっての尾崎紅葉は、敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。ほとんど崇拝といってもいいその態度は文壇でも有名なものであった。病床にあってなお紅葉は愛弟子鏡花の行末を案じ、原稿を求めてはこれに添削を加え続けたという。没後は自宅の仏壇にその遺影を飾って毎日の礼拝を怠らなかった。葬儀で門弟代表として弔辞を読んだのも鏡花である。 処女作『冠弥左衛門』が1894年(明治27年)に加賀北陸新報に転売、再連載されたことも、おそらく紅葉の口利きによるものと思われる。 鏡花がほとんど旧師・紅葉を神格化していたのに対し、同郷・同窓・同門の徳田秋声は師とは没後とりわけ距離を置き、自然主義一派に加わったため、2人の仲はよくなかった。後年改造社で円本を出す際、弟子の了解をとるべく社長の山本実彦が秋声を訪ねると、「では鏡花のところへも行こう」というので行き、話していると、秋声が「紅葉はお菓子が好きでたくさん食べたから胃を悪くして死んだのだ」と言ってしまったため鏡花は火鉢を飛び越えていって秋声を殴り、山本が間に入って秋声を外へ引きずり出したが、車の中で秋声は泣き通していたという。 後に里見弴らが両者を仲直りさせるために徳田秋声と泉鏡花をお客として「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちからやたらと酒ばかり飲んで、酔ったふりをして狸寝入りをしてしまい、昔噺でもしようという気で出てきた秋声もいつの間に帰ってしまった。それにもかかわらず、そのあとで秋声に会うと「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちやつたけど、なんとかもう一度機会をつくつてくれないか」と里見弴に言う。里見は心を鬼にして、「そんなこと何度やつたつて絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」と言った。しかし鏡花の臨終のときに知らせが間に合わず、鏡花の訃報を伝えていた里見の元に急ぎ足に秋声が来た。 「どう?」 「たった今……」 キリキリと相好が変わって、 「駄目じゃアないか、そんな時分に知らせてくれたって!」秋声に鞭打つ様な激しさで里見は怒鳴られ一言もなく頭を垂れた。 秋声は泣いていたという。里見弴「二人の作家」- 『私の一日』(中央公論社、昭和55年)より 尾崎家の書生時代、石橋忍月のところへ使いに行った際に柿をもらい、紅葉への使いものと知らずに食べてしまって、後からいたく恐縮したことがあった。また「大福餅を買ってこい」といわれて、菓子屋に大福を売っているとは思ってもみなかった鏡花は、わざわざ遠くの露天へ行って屋台の安い大福を買ってき、紅葉に笑われたことがある。
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