対中貿易の開始と断絶
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しかし吉田に反撥する野党のみならず与党内にさえも、戦前から経済的関係が深かった日中関係において、貿易関係を断つことは得策ではないという意見が存在した。朝鮮戦争継続中の1952年6月1日には国会議員の高良とみ・帆足計・宮腰喜助ら日中貿易促進会議のメンバーが、政府の方針に反してソビエト連邦を経由し北京を訪問。第一次日中民間貿易協定に調印して、物議を醸した。ここに制限付きながらもわずかに民間レベルでの日中貿易が再開されることになった。 翌1953年(昭和28年)に朝鮮戦争が停戦すると、衆参両院で「日中貿易促進に関する決議」が採択される。池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中して第二次日中民間貿易協定を結び、民間レベルでの貿易が開始された。吉田の退陣後、鳩山一郎内閣ではソ連との国交が回復。1955年(昭和30年)4月のバンドン会議では周恩来国務院総理が高碕達之助経済審議庁長官と対談し、平和共存五原則の基礎の上に日中国交正常化を希望していることを表明した。続いて、戦前から「小日本主義」を標榜していた経済学者出身の石橋湛山が総理大臣となり、中共との貿易促進・国交正常化も期待されたが、病気のため短期間で退陣する。石橋の後を継いだ岸信介は親台派ながら「日中貿易促進に関する決議」の提案者であり、総理就任後も対中共政策重視のために起用した藤山愛一郎外相とともに国会答弁などで中共との国交樹立には慎重でありつつも、第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」として日中貿易を促進したい旨を再三述べていた。これについて、岸は中華人民共和国との関係は基本的に経済を重視した「政経分離」であると語っている。岸は藤山とともに池田正之輔の訪中の際も打ち合わせを行っていた。しかし、1958年(昭和33年)5月2日に長崎国旗事件(長崎で暴徒が中華人民共和国の国旗を引きずり降ろした事件)が起こると、中共側は日本政府の対応を強く批判。日中貿易が全面中断され、中国歌舞団の日本公演も中止となった。
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