天野氏庶流として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:30 UTC 版)
藤秀の父・虎景は天文16年(1547年)7月までに死去し、同月に藤秀に今川義元から父の知行を安堵された。しかし藤秀自身が幼少であり宮内右衛門尉系統に他に有力な人物が存在しなかったことから、天野氏惣領職は安芸守系統の天野景泰に奪われ、父の同心・被官も景泰の同心とされた。 同年9月、戸田康光成敗を目的とした三河田原本宿の合戦などで功を立て、今川義元から感状を賜った。この合戦には惣領の景泰も参戦しており、その後も今川氏は両者に別々で感状や指示を与えている。今川氏としては景泰に惣領職を安堵しつつも、両者の系統を並立させることで天野氏を統制下に置く狙いがあったとされる。 同23年(1554年)9月に今川氏の同盟国である武田氏が信濃国伊那郡に侵攻すると、天野氏と所領を隣接する遠山郷の伊那遠山氏・遠山孫次郎の武田氏への帰属を景泰が仲介した。鈴木将典は武田氏と天野氏が交渉するのはこれが初めてではなく、武田氏との外交ルートを持つ天野氏を介して伊那遠山氏が武田氏への従属を図ったと推測している。この際に藤秀が使者として武田氏の元に赴き、伊那遠山氏の赦免を嘆願した。
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