天野氏の叛乱
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天野氏は山香荘に割拠した国人領主であり、今川氏の遠江侵攻に加担しその従属国衆となっていた。天野氏の系統は多数存在し、そのうち有力なものに本来の宗家であり七郎・安芸守を名乗る系統と、今川氏の遠江侵攻に貢献して台頭してきた宮内右衛門尉を名乗る系統があった。当時の惣領は安芸守系統の天野景泰であったが、領内支配や惣領権を巡り宮内右衛門尉系統の天野藤秀と対立しており、永禄5年(1562年)2月に今川氏を巻き込んだ訴訟問題を起こしている。この際に今川氏が藤秀に有利な裁定を下したことから景泰が不満を抱き、翌年(1563年)閏12月に今川氏に対して叛乱を起こした。 しかしこの叛乱はかねてより景泰の軍役負担に不満を抱いていた在地被官の助力を得られず、また同族の天野藤秀が今川方に残留し討伐軍に加わったことから、藤秀や天野氏同心の尾上正良によって同月中に鎮圧された。その後の天野氏は藤秀が惣領職となり再び今川配下の従属国衆となって存続した。
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