天野氏惣領に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:30 UTC 版)
藤秀は惣領である景泰・元景父子とは度々所領を巡り対立しており、永禄5年(1562年)2月に今川氏真の裁定により藤秀の知行・代官職が安堵された。この今川氏の裁定に景泰・元景父子は不満を抱いたらしく、翌年(1563年)12月に今川氏から離反した。藤秀は今川方に残り景泰らを討伐し、今川氏より天野氏の惣領職を安堵された。これにより天野氏の二系統が並立する状態は解消され、宮内右衛門尉系統の天野氏が再び惣領となった。 同11年(1568年)12月より甲斐武田氏と徳川氏による今川領国への同時侵攻が開始される。藤秀は今川方として奥山定友・知久兄弟と共に犬居城に籠城する一方で、翌年3月より徳川方の調略を受けて従属し、徳川家康の遠江国侵攻に協力した。しかしその一方で前年12月に下伊那から北遠に侵入した武田方の秋山虎繁を案内したともされており(『三河物語』)、武田方としても活動していた形跡がある。
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