事績・武田氏への従属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:38 UTC 版)
天文21年(1552年)に上杉憲政が後北条氏に上野を追われると上野国衆は次第に後北条氏に従属するようになり、大戸浦野氏も後北条氏に従属したとみられる。永禄3年(1560年)に憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が関東侵攻を開始すると、真楽斎は北条氏政より上杉勢の越山の報告と、実子を倉賀野へ人質として提出するように求めている。この時点で真楽斎ら大戸浦野氏は後北条方であったが、翌年に作成された『関東幕注文』には箕輪衆として「大戸中務少輔」の名前が確認でき、上杉方の従属国衆として箕輪長野氏の同心となった。 永禄4年(1561年)11月から武田信玄による西上野侵攻が開始された。信玄は11月9日時点で真楽斎に上野への出馬を知らせ、遅くとも翌年5月までには真楽斎・民部右衛門尉兄弟は鎌原重澄・甘利昌忠を通じて武田氏に従属している。同月には箕輪長野氏への攻撃を開始し、2日に権田(現・高崎市)を放火し、8日には室田(同前)に侵攻し長野三河入道(業氏か?)を討ち取っている。その翌年12月には木部に在陣する信玄の元に参陣し拝謁している。 永禄7年(1564年)1月までは官途名「中務少輔」を称しているが、同9年(1566年)閏8月より「宮内左衛門尉」の名乗りが確認できる。 永禄10年(1567年)4月16日、信玄より真楽斎・弾正忠父子に「三島・山県・三蔵・水沼・岩氷」の所領が宛がわれ、大戸城を中心として北は三島までの温川流域、南は三ノ倉(現・高崎市)までの烏川流域までの一円的な所領を形成していたとみられる。 天正7年(1579年)頃に家督を嫡子・弾正忠に譲り、武田勝頼より所領の安堵を受けている。この際に出家して「真楽斎」を名乗っている。しかし同9年(1581年)の高天神城の戦いで弾正忠が戦死したため、再び家督の座についたとみられる。
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