武田宗家の統一とは? わかりやすく解説

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武田宗家の統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:53 UTC 版)

武田信虎」の記事における「武田宗家の統一」の解説

室町時代甲斐国では、応永23年1416年の上禅秀の乱に守護武田信満加担して滅亡したことをきっかけ守護不在態となり、河内地方穴山氏郡内地方小山田氏らの国人勢力守護代跡部氏らが台頭し乱国態となっていた。寛正6年1465年7月には守護武田信昌跡部景家滅亡させる甲斐国内の実権握り明応元年1492年)には信昌の嫡男・信縄が家督相続した。信昌は山梨郡落合山梨市落合)において隠居すると、信縄の弟である油川信恵家督を譲る意志示し家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂した。信縄・信恵間の抗争両者甲斐国人が属したほか対外勢力とも関係し伊豆国堀越公方では内紛発生し駿河国今川氏親と、将軍足利義澄の命を受けた伊勢宗瑞北条早雲)により足利茶々丸追放されると信縄は茶々丸支持し、さらに上野国山内上杉氏とも結んだ対して信恵は駿河国今川氏親伊豆国伊勢宗瑞と結び対立した明応7年1498年8月25日発生した明応地震影響により信縄・信恵間には和睦成立し、『王代記』によれば甲斐都留郡吉田富士吉田市)に亡命していた足利茶々丸伊勢宗瑞引き渡され切腹した。信縄が家督継承し永正2年1505年9月16日に信昌が死去し、『隠録』によれば永正3年10月17日生母岩下氏(信縄側室)が、『高白斎記によれば永正4年2月14日には信縄が続けて死去する。これにより信直(信虎)が家督甲斐守護職継承し、再び信恵派との抗争再開される。 信直の叔父にあたる信恵は弟の岩手縄美栗原昌種惣次郎)や都留郡国衆小山田弥太郎のほか、河村氏・工藤氏上条氏らと結び、信直に対抗した永正4年1507年)に信縄が没すると、信恵派は挙兵するが、永正5年1508年10月4日勝山城の戦い笛吹市境川坊ヶ峰)において信恵方大敗し、信恵自身のみならず岩手縄美栗原昌種河村左衛門尉、信恵子息の弥九郎・清九郎珍宝丸らが戦死した。これにより信直による武田宗家の統一が達成される

※この「武田宗家の統一」の解説は、「武田信虎」の解説の一部です。
「武田宗家の統一」を含む「武田信虎」の記事については、「武田信虎」の概要を参照ください。

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