武田宗家の統一
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室町時代の甲斐国では、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に守護・武田信満が加担して滅亡したことをきっかけに守護不在状態となり、河内地方の穴山氏や郡内地方の小山田氏らの国人勢力や守護代の跡部氏らが台頭し、乱国状態となっていた。寛正6年(1465年)7月には守護・武田信昌が跡部景家を滅亡させると甲斐国内の実権を握り、明応元年(1492年)には信昌の嫡男・信縄が家督を相続した。信昌は山梨郡落合(山梨市落合)において隠居すると、信縄の弟である油川信恵に家督を譲る意志を示し、家中は信昌・信恵派と信縄派に分裂した。信縄・信恵間の抗争は両者に甲斐国人が属したほか対外勢力とも関係し、伊豆国の堀越公方では内紛が発生し、駿河国の今川氏親と、将軍足利義澄の命を受けた伊勢宗瑞(北条早雲)により足利茶々丸が追放されると信縄は茶々丸を支持し、さらに上野国の山内上杉氏とも結んだ。対して信恵は駿河国の今川氏親・伊豆国の伊勢宗瑞と結び対立した。 明応7年(1498年)8月25日に発生した明応地震の影響により信縄・信恵間には和睦が成立し、『王代記』によれば甲斐都留郡の吉田(富士吉田市)に亡命していた足利茶々丸は伊勢宗瑞に引き渡されて切腹した。信縄が家督を継承し、永正2年(1505年)9月16日に信昌が死去し、『菊隠録』によれば永正3年10月17日に生母岩下氏(信縄側室)が、『高白斎記』によれば永正4年2月14日には信縄が続けて死去する。これにより信直(信虎)が家督と甲斐守護職を継承し、再び信恵派との抗争が再開される。 信直の叔父にあたる信恵は弟の岩手縄美・栗原昌種(惣次郎)や都留郡の国衆・小山田弥太郎のほか、河村氏・工藤氏・上条氏らと結び、信直に対抗した。永正4年(1507年)に信縄が没すると、信恵派は挙兵するが、永正5年(1508年)10月4日の勝山城の戦い(笛吹市境川町坊ヶ峰)において信恵方は大敗し、信恵自身のみならず岩手縄美や栗原昌種・河村左衛門尉、信恵子息の弥九郎・清九郎・珍宝丸らが戦死した。これにより信直による武田宗家の統一が達成される。
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