武田大井氏とは? わかりやすく解説

武田大井氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 02:26 UTC 版)

大井氏」の記事における「武田大井氏」の解説

大井氏は、甲斐国巨摩郡大井荘山梨県南アルプス市)を本拠とした一族平安時代後期常陸国から源義清清光甲斐国流罪となり、その子孫盆地各地進出するが、清光期の西郡在地豪族大井氏見られる南北朝時代には安芸守武田信武甲斐守護となり甲斐へ土着するが、信武の三男信明は大井荘入部して大井氏称した室町時代には上杉禅秀の乱により守護武田氏権威失墜し甲斐各地では有力国人領主台頭し武田氏対抗する戦国時代大井氏郡内領主小山田氏河内領主穴山氏東郡栗原氏と並ぶ西郡の有力国衆として台頭する。 『高白斎記』『塩山向嶽庵小年代記』に拠れば大井信達・信業は富田城南アルプス市戸田)を本拠とし、穴山信懸とともに駿河国守護今川氏属し武田氏対抗する信達永正17年1520年)に武田信虎和睦し、娘(大井の方)が信虎正室となり嫡男太郎武田晴信、後の信玄)を産む。 大永元年1521年9月には今川氏武将福島氏甲斐へ侵攻し富田城攻略し甲府まで侵攻している。信虎期に甲斐統一達成され信虎・晴信期に今川氏同盟結ばれ西郡地域安定する信達の子息には信業・信常・武藤信堯武藤常昭がいる。信業は父・信達出家により家督継承し享禄4年1531年2月2日死去する。信業の子・信為は信業の没後家督継承し信虎の娘・亀御料人を妻としている。『高白斎記によれば天文18年1549年6月27日叔父の信常が名代として家督継承しており、信為はこの前後に死去した考えられている。 信達次男・信常は武田晴信信玄)の信濃侵攻において活躍している一方で歌人としても知られ天文16年1547年)には三条西実条甲斐下向に際して武田信繁武藤信堯とともに歌会行っている。信常は信為が死去する名代として家督継承する。信常は天文20年1551年7月14日以前死去した考えられている。信達の子武藤信堯武田家親族衆・武藤氏継承し天文19年1550年10月1日砥石崩れの際に戦死したという。信達の六男・武藤常昭は信堯の跡を継いで武藤家を継承した考えられている。 信常の子・信舜は信常没後家督継承し元亀2年1571年8月5日死去する現在の南アルプス市鮎沢には臨済宗寺院古長禅寺長禅寺)が所在する長禅寺真言宗寺院西光寺前身とされ、南北朝時代夢窓疎石中興して臨済宗寺院改められたという。戦国時代には臨済宗妙心寺派の僧・岐秀元伯ぎしゅうげんぱく)が招かれ住職となる。岐秀は武田晴信学問の師となり、後に晴信により長禅寺甲府城下に移転され甲府五山第一位となった。これが現在の甲府市愛宕町古長禅寺とは別に所在する長禅寺である。また、岐秀は大井夫人葬儀の際の導師務めている。 天正10年1582年)、甲州征伐によって武田氏滅亡の後、大井氏帰農したと伝えられる寛政重脩諸家譜によると、大井信達の子大井虎昌の系譜江戸時代まで旗本として続いた大井信達 - 大井虎昌 - 大井昌次 - 大井昌義 - 大井保 - 大井昌信 - 大井昌豊

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