武田大井氏
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大井氏は、甲斐国巨摩郡大井荘(山梨県南アルプス市)を本拠とした一族。平安時代後期に常陸国から源義清・清光が甲斐国へ流罪となり、その子孫は盆地各地へ進出するが、清光期の西郡在地豪族に大井氏が見られる。 南北朝時代には安芸守護武田信武が甲斐守護となり甲斐へ土着するが、信武の三男信明は大井荘へ入部して大井氏を称した。 室町時代には上杉禅秀の乱により守護武田氏の権威が失墜し甲斐各地では有力国人領主が台頭し武田氏に対抗する。戦国時代に大井氏は郡内領主の小山田氏や河内領主の穴山氏、東郡の栗原氏と並ぶ西郡の有力国衆として台頭する。 『高白斎記』『塩山向嶽庵小年代記』に拠れば大井信達・信業は富田城(南アルプス市戸田)を本拠とし、穴山信懸とともに駿河国守護の今川氏に属し武田氏に対抗する。信達は永正17年(1520年)に武田信虎と和睦し、娘(大井の方)が信虎の正室となり嫡男太郎(武田晴信、後の信玄)を産む。 大永元年(1521年)9月には今川氏の武将福島氏が甲斐へ侵攻し、富田城を攻略し甲府まで侵攻している。信虎期には甲斐の統一が達成され、信虎・晴信期には今川氏と同盟が結ばれ、西郡地域は安定する。 信達の子息には信業・信常・武藤信堯・武藤常昭がいる。信業は父・信達の出家により家督を継承し、享禄4年(1531年)2月2日に死去する。信業の子・信為は信業の没後に家督を継承し、信虎の娘・亀御料人を妻としている。『高白斎記』によれば、天文18年(1549年)6月27日に叔父の信常が名代として家督を継承しており、信為はこの前後に死去したと考えられている。 信達の次男・信常は武田晴信(信玄)の信濃侵攻において活躍している一方で歌人としても知られ、天文16年(1547年)には三条西実条の甲斐下向に際して、武田信繁や武藤信堯とともに歌会を行っている。信常は信為が死去すると名代として家督を継承する。信常は天文20年(1551年)7月14日以前に死去したと考えられている。信達の子・武藤信堯は武田家親族衆・武藤氏を継承し、天文19年(1550年)10月1日に砥石崩れの際に戦死したという。信達の六男・武藤常昭は信堯の跡を継いで武藤家を継承したと考えられている。 信常の子・信舜は信常没後に家督を継承し、元亀2年(1571年)8月5日に死去する。 現在の南アルプス市鮎沢には臨済宗寺院の古長禅寺(長禅寺)が所在する。長禅寺は真言宗寺院の西光寺が前身とされ、南北朝時代に夢窓疎石が中興して臨済宗寺院に改められたという。戦国時代には臨済宗妙心寺派の僧・岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)が招かれて住職となる。岐秀は武田晴信の学問の師となり、後に晴信により長禅寺は甲府城下に移転され、甲府五山の第一位となった。これが現在の甲府市愛宕町に古長禅寺とは別に所在する長禅寺である。また、岐秀は大井夫人の葬儀の際の導師を務めている。 天正10年(1582年)、甲州征伐によって武田氏滅亡の後、大井氏は帰農したと伝えられる。 寛政重脩諸家譜によると、大井信達の子、大井虎昌の系譜が江戸時代まで旗本として続いた。 大井信達 - 大井虎昌 - 大井昌次 - 大井昌義 - 大井昌保 - 大井昌信 - 大井昌豊
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