武田宗家の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)
信長は、勝頼自刃の時には信濃国境すら越えておらず美濃国の岩村城に滞在していた。 唯一、田中城の依田信蕃だけは抵抗を続けていたが、穴山梅雪の勧告もあって開城した。この時、徳川家康は依田を家臣に誘ったが断られた。 3月14日、浪合(長野県下伊那郡阿智村)に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いた。同日、依田信蕃は本拠の春日城に帰還している。その後、依田は織田信忠の元に出仕しようとしたが、徳川家康の使者から「信長が処刑を予定している武田家臣の書立(一覧)の筆頭に依田の名前がある」と言われ、密かに家康の陣所を訪れた。そこで家康から徳川領内への潜伏を勧められ、遠江に身を隠した。ちなみに他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で家康に帰参していた成瀬正一のもとに潜伏している。 『信長公記』『甲乱記』によれば、3月12日もしくは16日には武田信豊が勝頼の命により小諸城(長野県小諸市)へ赴き、城代の下曽根浄喜(覚雲斎)に背かれて次郎や生母・養周院とともに自害した。『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、小山田信茂は織田家に投降を試みたが信忠から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と言われ、3月24日に母と妻子、武田信堯、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛らとともに甲斐善光寺(甲府市善光寺)で処刑され、郡内領は無主となった。 信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了信道を逃した後、自刃した。信道の系統は大久保長安の業績に絡み後世にその血脈を伝えている。
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