武田家の上州侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 08:24 UTC 版)
一方、戦国期に信濃国は甲斐武田氏により領国化されており(信濃侵攻)、武田氏は北信地域をめぐり越後の上杉謙信と敵対していた。北信を巡る争いが永禄4年の川中島の戦いを契機に収束すると武田・上杉間の争いは上野方面へ移り、同年中に武田氏は西上野侵攻を開始する。安中城を持つ安中惣領家は、安中重繁が箕輪城主長野業政と結び上杉方に属し抵抗するが、翌永禄5年(1562年)9月には武田方に服属し、武田家臣曽根虎長が取次を務めている。その後は武田方として箕輪城などの攻略に参加した。 武田氏の配下となった安中氏は、抗戦した安中重繁からその子景繁に代わったが、永禄11年(1568年)に武田信玄が駿河今川領に侵攻し(駿河侵攻)、武田氏は相模後北条氏と敵対する。後北条氏は越後上杉氏との越相同盟をもちかけたため西上野は武田と上杉・北条間の最前線となり、この結果安中氏は北条に対する武田領の最前線の守将に位置づけられた。 その後、北条氏康から氏政に代わると甲相同盟の回復により北条と武田は和睦し西上野は安定するが、天正3年(1575年)長篠の戦いで武田軍が敗北した際、当主景繁が戦死した。この敗戦の際は安中氏の従軍した兵士は全滅したとされ、誰一人故郷に戻ってこれなかった、とされている。安中氏は安中久繁(七郎三郎)が継いだ。 天正6年(1578年)の越後上杉家における御館の乱を契機に甲越同盟の成立・甲相同盟の破綻で西上野は再び緊張する。安中久繁は武田勝頼に仕え、上野侵攻の一翼を担った。
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