武田家傘下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:07 UTC 版)
始め武田信玄に仕え、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加した。天正3年(1575年)5月に父が長篠の戦いで戦死したため、家督を継いで信玄の子・武田勝頼に仕え、足軽大将に抜擢された。 天正7年(1579年)8月からは岡部元信と共に遠江国高天神城の守将に任じられたが、天正9年(1581年)に徳川家康の攻撃を受けて落城すると、甲斐国に戻っている。なお、このときに高天神城では城将・岡部元信から小者に至るまで連名して援軍の派遣を勝頼に要請しているが、尹松だけは密かに勝頼に対して兵力の温存のためにも「高天神城は捨てるべき」といった内容の書状を出している。このとき、『甲陽軍鑑』では無事に戻ってきた尹松に対して勝頼が誉めて太刀を与えようとしたが、「祖父・原美濃も横田備中も、父の十郎兵衛も勝って褒美を貰ったことはあるが、自分が負け帰って褒美を貰ったのでは筋がたたない」と言って返したという話を伝えている。また、高天神城の城将だったころ、武田への降伏に反対して前城主小笠原信興に幽閉され、引き続き武田方の捕虜になっていた徳川家臣・大河内政局(源三郎)の義に感じ、様々な配慮をしていたという。
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