武田家の家臣時代
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天文6年(1537年)生まれであることは『信綱寺殿御事蹟稿』で明らかである。同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられている。 確実な初出史料は真田氏の氏神四阿山白山神社奥宮に奉納された父・幸綱と連名の連署で、武田家へ仕えているが初陣や出仕時期など前半生は不明。これは父・幸綱と生涯が重なるためで、前半生の大半は幸綱が前面に出ていたため、信綱の記録はほとんど見られない。父と連署していることから、この時点で既に嫡子・家督相続者としての地位を固めていたとされている。 『甲陽軍鑑』によれば永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸綱と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていたという。永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、幸綱は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である信綱が事実上支配していたと思われる。『軍鑑』に拠る元亀3年(1572年)、「信玄惣人数書上」によれば幸綱に代わって信濃先方衆の筆頭に挙げられており、この頃には世代交代が済んでいると推測されており、史料の検討から西上野侵攻作戦が行われていた永禄10年(1567年)までには継承が行われていたと考えられている。 戦場では専ら父・幸綱や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸綱と共に信濃国や上野国を転戦し、永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである。元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。
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