武田家の家臣時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 武田家の家臣時代の意味・解説 

武田家の家臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 17:25 UTC 版)

真田信綱」の記事における「武田家の家臣時代」の解説

天文6年1537年生まれであることは『信綱寺殿御事蹟稿』で明らかである。同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄近侍しているため、信綱も早い時期から信玄出仕していたと考えられている。 確実な初出史料真田氏氏神四阿山白山神社奥宮奉納された父・幸綱と連名連署で、武田家仕えているが初陣出仕時期など前半生不明。これは父・幸綱と生涯重なるためで、前半生大半は幸綱が前面出ていたため、信綱の記録はほとんど見られない。父と連署していることから、この時点で既に嫡子家督相続としての地位固めていたとされている。 『甲陽軍鑑によれば永禄4年1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸綱と共に妻女山攻撃別働隊加わっていたという。永禄6年1563年)の岩櫃城攻略前後から、幸綱は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃本願地は後継者である信綱が事実上支配していたと思われる。『軍鑑』に拠る元亀3年1572年)、「信玄人数書上によれば幸綱に代わって信濃先方衆筆頭挙げられており、この頃には世代交代済んでいると推測されており、史料検討から西上野侵攻作戦が行われていた永禄10年1567年)までには継承が行われていたと考えられている。 戦場では専ら父・幸綱や弟の真田昌輝と共に行動しており、幸綱と共に信濃国上野国転戦し永禄11年1568年)には昌輝兄弟駿河国攻め先鋒担い永禄12年1569年)の三増峠の戦いでは昌輝内藤昌豊とともに殿軍務めて戦功挙げている。その後主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇得ていたようである。元亀3年1572年)の信玄西上作戦にも従軍し三方ヶ原の戦いでは武田軍先手務めて奮戦した

※この「武田家の家臣時代」の解説は、「真田信綱」の解説の一部です。
「武田家の家臣時代」を含む「真田信綱」の記事については、「真田信綱」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「武田家の家臣時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「武田家の家臣時代」の関連用語

1
10% |||||

武田家の家臣時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



武田家の家臣時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの真田信綱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS