甲斐源氏の進出と荘域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 14:36 UTC 版)
平安時代後期には甲斐源氏の一族が甲府盆地各地へ進出して土着するが、加々美荘には源清光の子・加賀美遠光が進出し、南アルプス市加賀美の法善寺境内に居館を構えたという。遠光の一族は加々美氏のほか秋山氏、小笠原氏、南部氏などの氏族を輩出し、その勢力圏は加々美荘を含む甲府盆地南西端から甲斐南部の河内領に及ぶ。加々美荘南方の南アルプス市江原・下宮地・古市場・鮎沢付近から富士川町、市川三郷町黒沢に至る一帯には大井荘が位置している。大井荘も同じく加賀美遠光の支配下であったと考えられており、遠光嫡男の秋山光朝は南アルプス市秋山に進出して秋山氏を名乗ったという。 一方、加々美荘の北部には甘利荘など武田氏一族の勢力圏があり、加々美荘の東には市河荘が所在している。建治元年(1275年)の六条若宮造営注文(『国立歴史民俗博物館』所蔵)では「加々美美濃入道跡」が4貫を負担しており、比定される人物は不明であるが加々美氏の一族であると考えられている。 弘安8年(1285年)11月17日、鎌倉で安達泰盛・宗景父子が誅殺される霜月騒動が起こる。霜月騒動では小笠原氏、南部氏、秋山氏ら加賀美一族が連座しており、法善寺の記録では遠光の孫である加々美遠経の代で途絶えている。 天正年中寺部八幡宮板記(『甲斐国志』巻四九古跡部)によれば、戦国時代には引佐久保・野呂瀬・小柳・藤田・加々美中条・加々美・寺部の七郷が含まれていたとされ、荘域は荘域は南アルプス市加々美・鏡中条一帯にあたると考えられている。 霜月騒動により加賀美一族は衰退し、戦国時代には代わって武田氏の一族・武田大井氏が台頭する。
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