甲斐源氏と天台密教とは? わかりやすく解説

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甲斐源氏と天台密教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 03:33 UTC 版)

平塩寺」の記事における「甲斐源氏と天台密教」の解説

甲府盆地南縁、笛吹川左岸町域中央部位置する平塩寺跡地所在する平塩岡は、笛吹川支流芦川沿いの河岸段丘形成され東西延び丘陵である。周辺古代律令制下における八代郡比定され、甲斐国では最も早い10世紀立荘された国中三郡にわたる荘園で、京都伏見仁和寺子院である法勝院領・市河荘荘域にあたる。平安時代後期のには常陸国茨城県)から源義清(武田冠者)清光同地流罪され土着甲斐源氏勢力基盤となるが、平塩岡には義清屋敷跡残り中世における市河荘中核地域であった江戸時代後期編纂された『甲斐国志』(以下『国志』)に拠れば755年天平勝宝7年)に行基開山、直弁を開祖開創されたと伝わる。古代甲斐国では盆地東部中心に仏教文化移入されるが、平安時代には甲斐へ天台宗真言宗などの新仏教がもたらされ平塩寺延暦年間法相宗から天台宗改宗したという。 甲斐国において天台密教早く伝来し平塩寺のほか盆地東部柏尾山大善寺甲州市勝沼町勝沼)や放光寺甲州市塩山藤木)などを拠点として甲斐一円に広まる。平安後期1130年大治5年)には常陸から源義清清光親子流罪され市河荘土着しているが、『新編武蔵国風土記によれば、義清の兄弟にあたる覚義が近江国園城寺から平塩寺の主僧になっており、甲斐において天台密教甲斐源氏勢力拡大に伴い拡大する鎌倉時代『吾妻鏡』によれば1180年治承4年)に源頼朝の挙兵応じた甲斐源氏の一族である安田義定の勢に加わった市川氏がおり、平塩寺大檀那であるとも考えられている。

※この「甲斐源氏と天台密教」の解説は、「平塩寺」の解説の一部です。
「甲斐源氏と天台密教」を含む「平塩寺」の記事については、「平塩寺」の概要を参照ください。

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