甲斐源氏の挙兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 04:10 UTC 版)
治承4年8月頃には武田信義、安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏が挙兵して甲斐国を制圧した(『山槐記』)。8月25日には、石橋山で頼朝を破った大庭景親の弟俣野景久と駿河国目代が安田義定らと波志田山にて交戦した(波志田山合戦『吾妻鏡』)。駿河国へ侵攻し、10月14日(11月3日)に富士山の麓で目代橘遠茂の3000余騎を撃破した(鉢田の戦い『吾妻鏡』)。鎌倉幕府による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、甲斐源氏に対して頼朝は北条時政、加藤景廉らを派遣して、その指示のもとに行動していたように記されているが、これは後世の幕府による創作であり、甲斐源氏は頼朝とは別に以仁王の令旨を受けて挙兵しており、この時期に頼朝の指揮下に入る理由がなく、そもそも維盛の追討軍の目的は頼朝ではなく、甲斐源氏であったという見方もある。
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