甲斐浅利氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 15:57 UTC 版)
戦国時代には甲斐武田氏家臣に浅利氏の一族が見られ、武田家の譜代家老である浅利虎在(伊予守)・信種(右馬助)親子がいる。『甲斐国志』によれば、虎在の子息には信種・下条讃岐守がいる。 信種は永禄9年(1566年)以降に武田信玄側近として見られ、永禄10年(1567年)8月の下之郷起請文では奉行として活動している。永禄11年(1568年)以前に西上野の箕輪城の城代になったと考えられている。永禄12年(1568年)8月には相模国の後北条氏の本拠である小田原城を攻め、同年10月にはその帰途に三増峠の戦いが起こり、この戦いで信種は戦死する。土地の人民は浅利明神を建立して祀っており、今日も古戦場近くに現存している。 信種の子息には彦次郎があり、『甲斐国志』『岩淵夜話集』によれば天正10年(1582年)6月の天正壬午の乱に際して三河国の徳川家康に従い、徳川家臣の本多忠勝に仕えたという。ほか、「惣人数」『甲陽軍鑑』には「浅利式部」の存在が記されている。 箕輪城代は信種戦死後、内藤昌秀・昌月親子が継承している。
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