甲斐武田氏と恵林寺
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戦国時代に恵林寺は武田晴信(信玄)により再興される。天文10年(1541年)には臨済宗妙心寺派の明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)が28世として招かれる。明叔慶浚は飛騨国の国司・姉小路氏の被官である三木直頼の弟で、美濃大円寺(岐阜県恵那市岩村町)の住職であった。明叔慶浚は景堂玄訥の法嗣で、晴信に招かれるまで駿河国の今川義元に招かれ駿府の臨済寺(静岡県静岡市)住職として駿河に滞在していた。明叔慶浚は天文16年(1547年)に武田領国となった信濃伊那郡の那恵寺に招かれるが、飛騨へ戻ると禅昌寺(岐阜県下呂市)を再興した。 天文13年(1544年)には第29世として鳳栖玄梁(ほうせいげんりょう)が入寺し、開山派の僧として初の住職となった。鳳栖玄梁は岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく、甲府長禅寺住職)・希庵玄密(きあんげんみつ)の法兄で、天文15年(1546年)には積翠寺(甲府市上積翠寺町)における晴信主催の連句会にも出席している。 『葛藤集』によれば、永禄6年(1563年)には、明叔慶浚と同様に美濃大円寺の住職であった希庵玄密が恵林寺と継続院両寺の住職として招かれる。希庵玄密はこれに応じるが、恵林寺に入寺するとすぐに弟子の快川紹喜に住職を譲り、大円寺へ戻った。希庵玄密の甲斐における足跡では、同年5月には大井夫人13回忌の香語を読んでおり、永禄10年(1567年)には武田家御一門衆の穴山信君の求めに応じ、信君の父である穴山信友の肖像に讃文を寄せている。 永禄7年(1564年)には武田氏により寺領が寄進された。永禄7年(1564年)11月に美濃崇福寺から快川紹喜が招かれる。快川紹喜は美濃土岐氏の一族で、臨済宗妙心寺派・開山派の仁岫宗寿の弟子。快川紹喜は天文22年(1553年)にも恵林寺へ入山し、天文24年(1555年)5月7日には信玄の母・大井夫人の年忌を務めており、この翌年に美濃へ戻り崇福寺住職となっていた。 快川紹喜は恵林寺住職となると、恵林寺を信玄の菩提寺と定めているほか、美濃斎藤氏と武田氏との外交関係にも携わっている。『武家事紀』によれば、天正3年(1575年)4月には武田勝頼が喪主となり信玄の三年秘喪明りの葬儀が行われ、快川紹喜は導師を務める。七回忌法要の際には香語「天正玄公仏事法語」を読んでいる。快川紹喜は勝頼の代にも政務顧問的な役割を果たしている。
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