甲斐武田氏と恵林寺とは? わかりやすく解説

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甲斐武田氏と恵林寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 08:44 UTC 版)

恵林寺」の記事における「甲斐武田氏と恵林寺」の解説

戦国時代恵林寺武田晴信信玄)により再興される。天文10年1541年)には臨済宗妙心寺派明叔慶浚みんしゅくけいしゅん)が28世として招かれる明叔慶浚飛騨国国司姉小路氏被官である三木直頼の弟で、美濃大円寺岐阜県恵那市岩村町)の住職であった明叔慶浚は景堂玄訥の法嗣で、晴信に招かれるまで駿河国今川義元招かれ駿府臨済寺静岡県静岡市住職として駿河滞在していた。明叔慶浚天文16年1547年)に武田領国となった信濃伊那郡の那恵寺に招かれるが、飛騨へ戻ると禅昌寺岐阜県下呂市)を再興した天文13年1544年)には第29世としてほうせいげんりょう)が入寺し、開山派の僧として初の住職となった岐秀元伯ぎしゅうげんぱく、甲府長禅寺住職)・希庵玄密(きあんげんみつ)の法兄で、天文15年1546年)には積翠寺甲府市上積翠寺町)における晴信主催連句会にも出席している。 『葛藤集』によれば永禄6年1563年)には、明叔慶浚同様に美濃大円寺住職であった希庵玄密恵林寺継続院両寺の住職として招かれる希庵玄密はこれに応じるが、恵林寺入寺するとすぐに弟子快川紹喜住職譲り大円寺戻った希庵玄密甲斐における足跡では、同年5月には大井夫人13回忌の香語を読んでおり、永禄10年1567年)には武田家御一門衆穴山信君求め応じ信君の父である穴山信友肖像讃文寄せている。 永禄7年1564年)には武田氏により寺領寄進された。永禄7年1564年11月美濃崇福寺から快川紹喜招かれる快川紹喜美濃土岐氏一族で、臨済宗妙心寺派開山派の仁岫宗寿の弟子快川紹喜天文22年1553年)にも恵林寺入山し、天文24年1555年5月7日には信玄の母・大井夫人年忌務めており、この翌年美濃戻り崇福寺住職となっていた。 快川紹喜恵林寺住職となると恵林寺信玄菩提寺定めているほか、美濃斎藤氏武田氏との外交関係にも携わっている。『武家事紀によれば天正3年1575年4月には武田勝頼喪主となり信玄三年秘喪明り葬儀が行われ、快川紹喜導師務める。七回忌法要の際には香語「天正玄公仏事法語」を読んでいる。快川紹喜は勝頼の代にも政務顧問的な役割果たしている。

※この「甲斐武田氏と恵林寺」の解説は、「恵林寺」の解説の一部です。
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