甲斐源氏の台頭と浄土信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 09:05 UTC 版)
「甲斐国の仏教」の記事における「甲斐源氏の台頭と浄土信仰」の解説
平安中期には末法思想の影響により阿弥陀浄土を希求する浄土信仰が盛んになり、書写した教典を土中に埋納する経塚の造営が貴族層により行われはじめた。 甲斐国では平安後期に常陸国から源義清・清光が市河荘に配流され、義清の一族である甲斐源氏は甲府盆地各地へ荘園管理者として土着する。八幡神を氏神とする甲斐源氏は勢力拡大とともに盆地各地で八幡神を勧請して八幡神社を造営しているが、神仏習合の影響を受けて阿弥陀如来が八幡神の本地仏として信仰されるようになると甲斐源氏の間でも阿弥陀信仰が広まる。 甲斐源氏の一族は盆地各地で寺院を創建し、源義光(新羅三郎)を開祖とする大聖寺(南巨摩郡身延町)や、甲斐源氏の棟梁である武田信義が創建した願成寺(韮崎市神山地区)、安田義定が創建し寺内には阿弥陀堂があったといわれる放光寺(甲州市塩山地域)などがある。平安後期の阿弥陀如来像では願成寺の像や旧北宮地村(韮崎市)大仏堂に安置されていたと伝わる甲斐善光寺(甲府市)に伝わる旧天台寺院所蔵の阿弥陀如来像が代表格で、絵画では大聖寺や一蓮寺(甲府市)に伝わる浄土曼陀羅図が知られる。 甲斐国における経塚造営は、古代豪族三枝氏により造営され康和5年(1103年)在銘経筒が出土した柏尾山経塚(甲州市勝沼地域)や、三河国司藤原顕長により身延山地の篠井山に造営され「顕長」の名や久寿2年(1155年)の在銘のある渥美窯の短頸壺が現存している篠井山経塚(南巨摩郡南部町)などがある。平安後期には甲斐源氏の台頭により経塚の造営主も武家層に移り、一の森経塚(甲府市)や秋山経塚(南アルプス市)などが造営されている。
※この「甲斐源氏の台頭と浄土信仰」の解説は、「甲斐国の仏教」の解説の一部です。
「甲斐源氏の台頭と浄土信仰」を含む「甲斐国の仏教」の記事については、「甲斐国の仏教」の概要を参照ください。
- 甲斐源氏の台頭と浄土信仰のページへのリンク