神仏習合の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:07 UTC 版)
「談山神社」も参照 談山神社のような寺院との関係が深く、神仏習合の影響の大きい神社では神饌にもその影響がみられる場合がある。678年(天武天皇7年)、談山神社は藤原鎌足の長子であり、僧侶の定慧によって藤原鎌足の遺骨を改葬し、安置するために妙楽寺として建立された。当初は法相宗であったが平安時代には天台宗となり、藤原氏の繁栄に伴い、墓所として神威が高まった。926年(延長4年)、天神地祇、八百万の神々を祀り、大織冠像を合祀した総社が建立され、醍醐天皇によって談峰大権現の勅を賜った。1869年(明治2年)には神仏分離を受け、聖霊院が本殿、十三重塔が新廟、護国院が拝殿、常行三昧堂が権殿となり、多武峰一帯は談山神社となった。 献供される「百味の御食」という言葉は『仏説無量寿経』や『大阿弥陀経』にもみられ、大法会の際に仏前に供えられた様々な供物を意味する。あるいは盂蘭盆では一夏九旬(寺院にこもって行われる90日間の修行)を終えた無礼講の日に百味の御食で僧侶の供養を行う風習があった。このような仏教の風習が神仏分離以後も受け継がれ、現代に残るとされる。 また、賀茂別雷神社の摂社である奈良神社では、賀茂祭の最初と最後に悪鬼や邪気に強飯を奉げる儀式があり、この強飯を「散飯(さば)」と呼ぶ。こちらも同様に、仏教に同じ言葉が存在することから、影響の痕跡を残しているものとされる。 これらの仏教の影響の大きい神饌は「人の食べるものを神にも食べていただく」という考えと異なる、仏壇を荘厳に飾る美しい造形がなされるのが特徴である。また、祭式次第による生饌への移行以前から生饌として捧げられていた。
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