神仏習合の新展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:39 UTC 版)
仏教による護国思想がいきわたるなかで、神は仏の化身であるという本地垂迹説がいっそう広がった。賀茂社や春日社などに仏塔が建てられたのも12世紀のことであった。 藤原氏の氏神である春日社は、神仏習合の進展により、氏寺である興福寺と一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がしばしば行われるようになったが、寛治7年(1093年)以降、春日社の神霊を移した神木(榊)を奉じて上洛する「神木動座」もたびたび行われた。一方、延暦寺の僧兵たちが日吉社の神輿を奉じて強訴する「神輿動座」は嘉保2年(1095年)にはじまった。 修験道はいっそうさかんとなった。紀伊の熊野三山はじめ、大和国の葛城山・金峰山・大峰山、出羽国の出羽三山などは特にその中心として、修験の活動の場となった。
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