神仏習合と神仏隔離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:39 UTC 版)
詳細は「神仏習合」を参照 6世紀に仏教が公伝すると、物部氏と蘇我氏の仏教受容をめぐる抗争を経て、日本にも仏教が広がるようになった。しかし、当初は仏が「蕃神(あだしくにのかみ)」と呼称されたり、司馬達等の娘嶋など女性が出家者となって巫女のように仏像の管理を行うなど、仏教は在地の神祇信仰的に取り入れられ、質的に違いがあるとは認識されなかった。その後、7世紀に入ると日本の神々もまた、天部にあって人と同じく解脱を目指している存在として捉える「神身離脱説」が生じ、神前読経などを行うための施設として神社内に神宮寺が建立されるようになった。満願によって建立された多度神社の多度神宮寺などがその初期の例である。また、寺院の側からも神道に接近する動きが見られ、神々を仏法を鎮護する存在とみなす護法善神説が生じ、寺院内にも鎮守社が設けられるようになった。 平安時代に入ると、神仏双方の要素を持つ御霊信仰や、熊野を浄土とみなす熊野信仰など、神仏習合に基づく様々な信仰形態が生じ、仏像の影響のもと神像も作成されるようになる。時代が進むと、神仏習合思想はさらに展開し、神は仏が衆生を救済するために仮に現れた姿であるとみなす「本地垂迹説」が生じ、菩薩や権現といった仏教的神号の使用や、神体である鏡の裏に本地である仏の像を刻む御正体の作成などが行われるようになる。 他方、朝廷や神宮においては神仏隔離の思想も見られるようになる。『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿の官吏が仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられた。平安時代中期以降には、新嘗祭、月次祭、神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中内裏の仏事をやめ、官人も仏法を忌避することとなった。伊勢神宮でも、境内では「仏」を「中子」、「僧侶」を「髪長」に言い換えるなどの忌詞の制が敷かれ、斎宮でもこれに準じて忌詞が用いられた。このように、神仏習合は信仰ベースで進みつつも、祭祀儀礼は神道と仏教が別体系で存在したのである。
※この「神仏習合と神仏隔離」の解説は、「神道の歴史」の解説の一部です。
「神仏習合と神仏隔離」を含む「神道の歴史」の記事については、「神道の歴史」の概要を参照ください。
- 神仏習合と神仏隔離のページへのリンク