経塚の造営とは? わかりやすく解説

経塚の造営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/25 17:44 UTC 版)

篠井山経塚」の記事における「経塚の造営」の解説

経塚平安中期末法思想影響受けて流行した写経事業で、甲斐国最古柏尾山経塚古代豪族である三枝氏により造営されている。 篠井山経塚造営した藤原顕長院政期実務面で活躍した権勢誇った勧修寺流藤原氏出自で、鎌倉時代に至ると勧修寺藤原氏甲斐守を独占している。顕長は三河守保延2年1136年)から天養2年1145年)、久安5年1149年)から久寿2年1155年)の2期務めており、顕長が2期目三河守となった久安5年には富士上人末代発願富士山頂への一切経埋納が行われている。これは鳥羽法皇結縁して都人をはじめ東海道東山道地域経典写経勧進行った国家的事業で、篠井山経塚造営が行われた久寿2年に顕長は三河守辞し鳥羽法皇皇后美福門院の間に生まれた近衛天皇死去しており、本願一族平穏繁栄追善供養であると考えられている。 また、鳥羽法皇美福門院の間に生まれた八条暲子内親王鳥羽院領と美福門院領を継承し八条院領呼ばれるが、甲斐国では巨摩郡小井河荘と鎌田荘の両荘はそれぞれ安楽寿院領と勧喜光院領を経て八条院領に伝領されており、背景には顕長の存在があり、経塚の造営も康治元年1142年)には甲斐となっている藤原顕遠(顕時)や伊豆守藤原信方や相模藤原頼憲ら勧修寺一門協同し事業であると考えられており、勧修寺藤原氏直系以外でも同族集団として共同歩調をしていたことが指摘されている。 2000年発見された新資料において、経塚容器大窯時間差があることから複数回の造営であった可能性指摘されているが、平安末期には甲斐源氏甲府盆地各地進出し一の森経塚秋山経塚など造営主も貴族から武士層へ移行していることから、13世紀造営主は南部氏福士氏などの可能性想定されている。

※この「経塚の造営」の解説は、「篠井山経塚」の解説の一部です。
「経塚の造営」を含む「篠井山経塚」の記事については、「篠井山経塚」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「経塚の造営」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「経塚の造営」の関連用語

経塚の造営のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



経塚の造営のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの篠井山経塚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS