経堂と文庫の建立
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寛文10年(1670年)、錦袋円の売上金3,000両をもとに、300両で宿願の大蔵経(天海版大蔵経6,323巻)を購入した。さらに輪王寺宮初代の守澄法親王の許可を得て、不忍池に小島(「経堂島」)を築き、そこに2階建の経堂を建てて大蔵経を納めた。その後、京都の東福寺塔頭普門院に行き、聖一国師円爾の像を礼拝し、座元を務めた。また、号を了然より了翁に改めた。 寛文11年(1671年)、水面に近い位置に建てられた経堂を上部に移築し、広く内外の典籍を蒐集、識者の披閲に供し、堂内に如定将来の三聖像を安置した。また、伊勢の安養寺の門前に施薬館を建てたほか、京都の泉涌寺の門前にも施薬所を設置して、5万5千袋余に及ぶ錦袋円を処方した。 寛文12年(1672年)には棄児十数人の養育をはじめている。また、同年、上野寛永寺のなかに勧学寮を建立し、教学の専任となった。並立した文庫6棟には和漢の書籍を収蔵し、僧侶ばかりではなく、一般にも公開した。これは、日本初の一般公開図書館であったばかりでなく、閲覧者のなかで貧困の者や遠来の者には飯粥や宿を与えるという画期的な教育文化施設であった。 勧学寮で寮生に与えられた食事は質素なものであったが、おかずとしては、了翁が考案したといわれる漬物が出された。大根、なす、きゅうりなど野菜の切れ端の残り物をよく干して漬物にしたもので、輪王寺宮がこれを美味とし「福神漬」と命名、巷間に広まったとされる。勧学寮ではまた、経済的に窮乏している者に対しては授業料が免除された。 なお、延宝2年(1674年)には江戸芝白金の瑞聖寺にも経蔵を建て大蔵経を完置したほか、約5,000巻の漢籍を納めた。こうした功績が認められ、延宝6年(1678年)、了翁には台、密、禅の兼学の法印が、上州の長楽寺において授けられている。
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