経塚古墳 (笛吹市)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:02 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動経塚古墳 | |
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墳丘(2010年7月撮影) | |
所在地 | 山梨県笛吹市一宮町国分字経塚 |
位置 | 北緯35度38分20.2秒 東経138度40分38.9秒 / 北緯35.638944度 東経138.677472度座標: 北緯35度38分20.2秒 東経138度40分38.9秒 / 北緯35.638944度 東経138.677472度 |
形状 | 八角墳 |
規模 |
対辺長12.5m 高さ2.2m |
出土品 | 鉄斧 |
築造時期 | 7世紀前半 |
史跡 | 山梨県指定史跡「経塚古墳」 |
地図 |
経塚古墳(きょうづかこふん)は、山梨県笛吹市一宮町国分にある古墳。形状は八角墳。山梨県指定史跡に指定されている[1]。
概要
甲府盆地東部、旧一宮町西部の笛吹川支流金川扇状地上に位置。標高は348m。周辺には古墳時代後期から終末期の国分古墳群が分布し、続く奈良時代移行の甲斐国分寺跡や甲斐国分尼寺跡も見られる。古墳の存在はそれまで知られており、6~7世紀の小型円墳と推定されていたが、1994年(平成6年)に水害防備保安林を森林公園として整備する際に山梨県教育委員会による調査が実施され、全国で9例目、東日本では3例目にあたる八角墳と確認された。
発掘調査により石室は全面解体され、復元整備が施された。出土遺物は少なく、築造期の鉄斧のほかは二次的な甲斐型坏や人骨が見られるのみ。古墳の規模は直径12.5m、高さ2.2m、横穴式石室を有する。築造年代は近辺の終末期古墳との類似や石室構造、出土遺物の鉄斧から古墳時代終末期の7世紀前半と推定された。出土遺物は山梨県埋蔵文化センターに保管され、古墳は山梨県森林公園金川の森として整備が完了している。
八角墳は古墳の形態変化の過程で生じたものではなく、思想的影響であるものと考えられている。八角形が鎮魂の意味を持ち寺院建築にも応用されている仏教思想や、天子の祭礼や皇帝礼儀の象徴的意味を持つ中国思想的宇宙観の影響によるものであると考えられており、日本では畿内での天皇陵のほかは西日本では兵庫県、東日本では東京都多摩市の稲荷塚古墳(7世紀前半)、群馬県藤岡市の伊勢塚古墳(6世紀前半)、北群馬郡吉岡町の三津屋古墳(7世紀前半)の例があるのみであった。
山梨県内では盆地南端の曾根丘陵に分布する古墳群のうち、4世紀後半の甲斐銚子塚古墳を中心とした畿内色の強い大型古墳が分布し、早くから畿内王権との関わりが指摘されていた。やがて盆地各地に大型古墳を築造する勢力が出現し、奈良時代には盆地東部の豪族が新たに畿内王権との関わりをもち、政治的中心地も遷っている。経塚古墳をはじめ関東での八角墳の例により、それまで皇族など最高首長層に限られていた古墳時代の墓制が東国でも採用されていたことが明らかになった。
1994年(平成6年)に実施された石室の復元工事ではクレーンなどの重機を用いず、山梨県内で「かぐらさん」と呼称される木製の巻上機を用いて石室の解体作業を実施した。
文化財
山梨県指定文化財
- 史跡
- 経塚古墳 - 1994年(平成6年)11月7日指定。
脚注
参考文献
- 吉岡弘樹「経塚古墳」『山梨県資料編1原始・古代〔考古(遺跡)〕』(1998)
関連項目
外部リンク
- 山梨の文化財ガイド(データベース)史跡03 > 経塚古墳 - 山梨県ホームページ
経塚古墳
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経塚古墳(きょうづかこふん)は和泉支群に属す円墳で、出土した円筒埴輪欠から5世紀後半の築造と推定されている。1996年に行われた調査では周溝が検出され、幅11mから14mほど、深さ約1.5mの周溝だったと考えられている。直径は40mから42m、高さは5mと古墳群の中でもかなり巨大だったと推測されていて、狛江古墳群3番目の大きさである。 かつては泉龍寺の敷地内にあり、墳丘から常滑の蔵骨器などが出土したことから、13世紀以降、仏教の宗教的な施設、泉龍寺の一部として再利用されたと考えられている。墳丘の上には仏教の供養塔の一種である板碑が30基ほど建てられ、さらに泉龍寺を再興したとされる奈良時代の良弁僧正の墓とする伝承もある。もう板碑は古墳にはないが、一部泉龍寺内に保存されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}本堂より一町半余、西北の間にあり、則境内なり、寺僧相伝ふ、前代良弁といへるが経文を納めたるところなりと、されど村内に大なる塚十三四あり、其内をいつの比か切崩せしに、中より朽ちたる鐵又は甕の類を得たりと云ことあり、恐くは昔し任せる人の墳墓なりやと土人は云り —新編武蔵風土記稿 経塚という名前について、良弁僧正が佛経を埋めたことに由来するとの記述がある。 寺より後の方、用水堀を越えて一丁あまり艮の方、畑の中にあり。少さき岡の上に三囲ばかりの老樹あり。往古、良弁僧都この所に佛経を埋め、松を植えて印とす。この樹下に古牌六枚あり。 —江戸名勝図会 なお、良弁僧正に関する記述はあくまでも伝承であり、史実としての確証は2022年現在得られていない。詳細は泉龍寺のページを参照されたい。 詳細は「泉龍寺 (狛江市)」を参照 普段この古墳へは施錠されているため立ち入ることができないが、東にある集合住宅の「狛江ガーデンハウス」の管理人、もしくは泉龍寺の関係者に許可を得ることで墳頂まで登ことができる。 古墳一帯は1997年2月に狛江ガーデンハウスを建設する際、泉龍寺と住友不動産によって土留めなどの整備がなされた。東京における自然の保護と回復に関する条例に基づき、東京都によって公園緑地として設定されている。
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