経塚築造の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:39 UTC 版)
末法の時代が近づくにつれ、釈迦入滅後56億7000万年を経たのちに弥勒菩薩が地上に下って衆生を救済するという弥勒信仰が広まり、また、弥勒の再生に備えて経典を埋納して保存しようという人びとの思いはやがて経塚の築造という行為を生むにいたった。 現在知られる経塚の最古は、藤原道長が外面に願文を書き、なかに紺紙金字経を収めた銅製の経筒を大和の金峰山山頂に埋納した例とされており、経筒に寛弘4年(1007年)の紀年銘を有する。以後、経塚はさかんに造られるようになり、11世紀後半から12世紀全般にかけては全国各地でさかんに築造された。当初は弥勒信仰にもとづく仏典保存を目的としていたが、やがて極楽往生や現世利益などの動機も早い段階から複合していった。 なお、経を納める容器には、銅筒のほか陶製の壺や甕、竹製、石製の容器も用いられた。銅製の経筒には、円形の筒のほか、六角形や八角形の筒もあり、さらに石製の外容器をともなう場合があった。
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