越中への進出とは? わかりやすく解説

越中への進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)

上杉謙信」の記事における「越中への進出」の解説

詳細は「越中の戦国時代」を参照 永禄11年1568年)、織田信長推戴され新しく将軍となった足利義昭からも関東管領任命された。この頃から次第越中国出兵することが多くなる一方で北信をめぐる武田氏との抗争収束していた。織田信長今川義元桶狭間の戦い敗死させた後、後継者となった今川氏真武田晴信攻めた駿河侵攻)。だが氏真を挟撃するため手を組んでいた三河大名徳川家康衝突起こし上杉氏との関係は同じく武田氏手切れとなった相模北条氏武田氏友好関係をもつ将軍義昭織田信長らとの関係で推移する永禄11年1568年3月越中国一向一揆椎名康胤武田信玄通じたため、越中国制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かなかった(放生津戦い)。7月には武田軍信濃最北部の飯山城攻め寄せ支城陥落させる等し越後国脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中国入り堅城松倉城をはじめ、守山城攻撃した。 ところが時を同じくして、5月信玄通じた上杉家重臣揚北衆本庄繁長謀反起こしたため、越後国への帰国余儀なくされる反乱鎮めるため輝虎はまず、繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増降伏させ、繁長を孤立させた。その上で11月に繁長の居城本庄城攻撃加え謀反鎮圧する本庄繁長の乱)。 この頃前述のように甲斐武田氏駿河今川氏は関係が悪化し同年11月25日今川氏真武田氏の当敵である上杉氏和平持ち掛け信濃への牽制要請しているが、謙信はこれを退けている。 永禄12年1569年)、蘆名盛氏伊達輝宗仲介を受け、本庄繁長から嫡男本庄顕長人質として差し出させることで、繁長の帰参許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増降伏により、出羽庄内地方手にする

※この「越中への進出」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「越中への進出」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。

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