今川氏の三河進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 07:45 UTC 版)
16世紀初めから続いてきた今川氏の三河国への進出は天文15年(1546年)以降に本格化し、天文16年(1547年)の今川義元による戸田康光の滅亡と織田信秀による松平広忠の降伏、天文17年(1548年)の小豆坂の戦いによる今川氏の勝利と織田氏の後退及びそれに前後する松平広忠の今川方復帰、天文18年(1549年)の松平広忠の急逝に伴う今川氏による岡崎城接収と松平氏(安祥松平家)の後継者・竹千代(後の松平元信→松平元康→徳川家康)の駿府における庇護、それに続く織田方の安祥城の奪還、吉良義安の反乱鎮圧と駿府への連行と続き、その一方で三河国で競合関係にあった尾張国の織田氏(織田弾正忠家)が織田信秀の死後に内紛を抱えたこともあって今川氏優位に進んでいた。天文24年(1555年/弘治元年)2月には織田方だった鳴海城の山口教継が織田方から今川方に転じている。また、3月には松平竹千代が今川義元を烏帽子親として元服して、今川氏一門の関口氏純の娘(築山殿)を妻に迎えた。松平信忠以来3代にわたって安祥松平家の当主は吉良氏の当主から偏諱を与えられていたが、ここにおいて今川氏の当主が偏諱を与えて吉良氏に代わる三河国主としての立場を内外に示したのである。
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