今川氏の家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:50 UTC 版)
『武徳編年集成』には、少年時代の正綱は人質として駿府に連行された徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていたことが記されているが、江戸期の資料であり、これらは空想の域をでない。 今川家の譜代家臣として、弘治3年(1557年)に初陣、兜首2つを獲って名を馳せた。永禄11年(1568年)12月より武田信玄が今川領国への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、重臣の多くが武田方に寝返る中で今川方の立場を堅持して弟・岡部治部右衛門(長秋?)と抵抗し、翌年4月に信玄が後北条氏に攻められ駿河から撤退した後に駿府今川館を占拠した。同年12月に再び武田軍が駿河に侵攻した際にも頑強に抵抗したが、その武勇を高く評価され、臨済寺の鉄山宗純を介して開城し、以後武田氏の家臣として仕えた。
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