今川氏に叛くとは? わかりやすく解説

今川氏に叛く

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:10 UTC 版)

菅沼定継」の記事における「今川氏に叛く」の解説

弘治2年1556年)、亀山城主の奥平監物貞勝が今川氏から離反すると妹が再嫁した縁で、これに加担する。 奥平・菅沼による今川造反軍は、主に奥平が額田郡の2ヶ所、菅沼設楽郡蜂起した同年2月15日1556年3月26日)、まず奥平氏額田郡秦梨城襲って奪取。その上東条松平忠茂率いられ今川方の鎮圧軍を日近撃退し幸先良い勝利を手にする日近合戦)。 ところが定継には実弟たちが同調せず、今川方に留まって敵対そればかりか菅沼支族からは叔父定則の子の中から菅沼定村の弟・定圓、定自の2人、他に島田菅沼家の孫太夫などが定継に加勢し程度で、一家挙げて支援参ずる分家無く宗家としての面目を失う。それでも同年5月には、弟たち一戦交え、これを撃破する布里合戦)。 駿府今川義元から、本格的な鎮圧下命受けた東三河諸将は、親族として奥平氏与する阿知波氏所領である額田郡雨山攻め入る同年8月4日9月7日)、のちに「雨山合戦」と呼ばれるこの戦い今川方が勝利する。これにより、今川離反首謀者であった義弟奥平貞勝降伏してしまう。 同月21日9月24日)、事実上孤軍となった定継は弟たち菅沼一門による鎮圧軍の反撃晒され敗退。定継たち造反軍は蜘蛛の子散らしたように遁走する。この敗走兵への追撃執拗で、田峯城まではとても逃れきれぬと悟ったか、僅かな供回りとともに布里新城市布里)の黒ヌタという所で、自刃して果てた討死したとも、誅殺されたとも諸説あり)。

※この「今川氏に叛く」の解説は、「菅沼定継」の解説の一部です。
「今川氏に叛く」を含む「菅沼定継」の記事については、「菅沼定継」の概要を参照ください。

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