今川氏の三河支配の完成とその解体
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「三河忩劇」の記事における「今川氏の三河支配の完成とその解体」の解説
一連の反乱鎮圧の結果、三河国のほとんどが今川氏の領域となった。同じ頃、今川義元は隠居して氏真に家督を譲り、以降は今川氏内部のことは氏真に任せて、自身は三河経営に力を注ぐことになる。2年後の永禄3年(1560年)、今川義元は尾張国へ兵を進めて織田信長の奇襲で落命する(桶狭間の戦い)が、その目的の1つに三河国境地域を安定させて国衆の再度の反乱を抑える目的もあったとされる。だが、結果的には義元の死とその後の対応の誤りによる松平元康の自立(「三州錯乱」)と今川氏によって一度は抑圧された「一揆」の再燃を招く。これに対して今川氏は再度の軍事的解決並び一族内部への介入策による事態の解決を図るが失敗に終わり(結果的に反今川派による松平元康への帰属を招く)、更にこれを見た遠江国の国衆の反乱(「遠州忩劇」)によって今川氏の三河支配は短期間で崩壊することになる。
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