今川氏との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 07:07 UTC 版)
戦国時代初期の尾張守護である斯波義寛の嫡男として誕生する。斯波氏は戦国時代に入ると主要領国である越前を家臣の朝倉氏に奪われるなど衰退の兆しが現れたが、それでも尾張・遠江の東海2ヶ国を支配する守護大名で、室町幕府9代将軍足利義尚と10代将軍足利義稙による2度の親征(六角高頼征伐等)の際には幕府軍の主力となり得る兵力を動員できる勢力を保持していた。 しかし永正年間に入ると、その支配領国の1つである遠江を狙って、隣国の駿河守護・今川氏親が盛んに侵攻を始めてくるようになる。元々遠江は今川氏が所持していたものを、室町時代中期に斯波氏に奪われた経緯があったため、今川氏にとって遠江の『奪還』は代々の今川家当主の悲願であった。このため応仁の乱の最中には、義達の父・義寛と氏親の父・義忠が実際に幾度か干戈を交えており、この抗争によって義忠が討たれるなど、斯波・今川両家の間には遠江を巡る深い因縁があった。更に遠江には今川氏の宗家筋で御一家である吉良氏の所領である浜松荘があり、同氏の家臣団も斯波氏と結んだ大河内氏と今川氏と結んだ飯尾氏が激しく争っていた。 この氏親の侵攻に対抗して義達は永正7年(1510年)から今川氏と戦うが、次第に劣勢に追い込まれてゆく。永正10年(1513年)に反攻を図って遠江の国人である井伊直平や吉良氏家臣の大河内貞綱と共に遠州に進撃したが、氏親配下の武将である朝比奈泰以や吉良氏家臣の飯尾賢連の前に大敗を喫する。
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