清洲同盟から三河国平定
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永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。翌19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とした。義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に駐屯し、住職の登誉天室と相談の上、今川方が危険を感じ撤収した後の岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとする。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある。さらに近年の新説として、桶狭間での勝利に乗じた織田軍の三河侵攻を警戒した今川氏真がこれに備えるために元康の岡崎城帰還を許したとする説も出されている。 永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとしている。4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした。 折しも今川氏の盟友であった武田信玄、北条氏康は、関東管領・上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵(小田原城の戦い)への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる。また、桶狭間の戦い直後は三河の今川方をまとめて織田方の侵攻と対峙していた元康が三河への軍事的支援を後回しにして同盟国の武田・北条支援に動く氏真に失望して、援軍を得られないまま織田氏に抵抗を続けるよりも織田氏と結んで独立を図った方が領国維持の上で得策と判断したとする見方もある。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている。その後も元康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。 永禄4年(1561年)先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)(『史料総覧』巻10)。同年4月西三河で今川氏との戦いが開始された。 永禄5年(1562年)には、家康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}一方、将軍・足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。[要出典] 永禄6年(1563年)には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。「家」を選んだ理由は明確ではないが、菊地浩之は於大の方の再婚相手である久松俊勝が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたが、家光以後に「家」の通字が徳川将軍家として重要になり、由来を隠したとする説を唱えている。同年3月には、同盟の証として嫡男竹千代(信康)と信長・娘五徳との婚約が結ばれる。 永禄7年(1564年)、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。遠江国で発生した国衆の反乱(遠州忩劇)の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。
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