今川治部大輔義元の墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 00:16 UTC 版)
「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「今川治部大輔義元の墓」の解説
今川治部大輔義元の墓(いまがわじぶだゆうよしもとのはか)は、桶狭間古戦場伝説地のうち公園内にある墓碑で、有松村の住人であった愛知県第7大区1小区戸長山口正義が主唱し愛知県令安場保和の協力を仰いで1876年(明治9年)5月に建立されたものである。元々は塚であったと考えられ、碑陰記の示すところでは、前出の桶峡弔古碑が建立されて以来それを今川義元の墓と勘違いをして香華を手向ける人が後を絶たず、後にいばらやごみで埋もれてしまって碑の在処さえ分からない状況に陥っていたので、このたび改めて周辺を整備し、この墓碑を建立するに至った、とのことである。碑は初め東面であったが、1906年(明治39年)10月の明宮(後の大正天皇)行啓に際して南面に改修したという。
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