飯尾氏の叛乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 13:31 UTC 版)
飯尾氏は元は三河吉良氏の浜松荘代官であり、今川氏親の遠江侵攻に際して今川方に属したことで引間城周辺を領するようになった国衆である。飯尾氏当主・飯尾連龍は松平氏に内通して永禄6年(1563年)12月に今川氏から離反し、頭陀寺城に飯尾家臣・飯尾土佐と江馬弥七が立て籠もった。今川氏は飯田口合戦で飯尾方を打ち破り、氏真が富士又八郎・小笠原清有・朝比奈信置らに感状を与えている。翌年(1564年)2月にも引間口で合戦が起きているが、今川氏が中々飯尾氏の叛乱鎮圧を行えずに苦戦していたようである。4月に飯尾連龍は松平家康と対面し、鷲津本興寺に松平軍が乱入し各地の今川方への攻撃が行われた。 同年10月になると今川氏真は飯尾連龍を赦免し、連龍の籠る頭陀寺城の破却を命じた。しかし翌年(1565年)12月に連龍が再び松平氏に内応したことが発覚すると、20日に氏真によって連龍は処刑される。その後も飯尾氏の家臣団は松平氏に通うじて今川氏への抵抗を継続し、飯尾氏家老の江馬時成・泰顕が松平家臣・石川数正と酒井忠次より加勢を約束する起請文を受け取っている。江馬氏の叛乱は翌年4月21日付で氏真から江馬氏に知行安堵が行われたことでひとまず終結したとみられる。
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