幼少期から初陣
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元亀元年(1570年)、島津家久の子として誕生。幼名は豊寿丸で、初めは島津 忠豊と名乗っていたが、後に豊久と改名した。天正11年4月11日(1583年6月1日)、上井覚兼が佐土原に赴いたが、父・家久が留守だったため対応する。 天正12年3月(1584年4月)の沖田畷の戦いに初陣。まだ元服していなかったが、新納忠元の後見の元、敵の首級一つを討ち取った。この戦いの直前の早朝、父・家久は、13歳の豊久に「あっぱれな武者振り、ただ上帯の結び方はこうするのだ」と結び直して脇差でその帯端を切り、「よく聞け。もし戦に勝って討死しなければ、この上帯は儂が解こう。だが今日の戦で屍を戦場に晒す時は、切った上帯を見て、島津が家に生まれた者の思い切ったる所作と敵も知り、儂もその死を喜ぼう」と言ったと言う。沖田畷において家久・豊久父子は奮戦し、勝利して無事に帰還した後、家久は豊久の帯を解いたといわれる。 天正12年4月14日(1584年5月23日)に肥後国にて元服を果たした。ちなみに、天正13年12月(1586年2月)、父の家久が豊久兄弟3人の疱瘡治療のため、薬の『蘇香円』を持っていれば頂きたいという旨を、上井覚兼に伝えている。
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幼少期から初陣
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三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年12月26日(1543年1月31日)寅の刻(午前4時)に岡崎城 にて誕生。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。 3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟し、織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。 天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない。また、近年の研究では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。 2年後に広忠が死去する。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。 天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶る。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい蔵人佐元康と改めている。 なお、松平元康(徳川家康)の今川氏との関係については吉良氏との関係を考慮する必要があるとする指摘もある。吉良氏は三河国幡豆郡を根拠とした足利氏御一家の一つで、今川氏の宗家筋であった。吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与え、松平信忠は吉良義信、松平清康は吉良持清、松平広忠は吉良持広の偏諱を得たと推定されている。今川義元は吉良氏に代わって安祥松平氏の次期当主に対して自らの偏諱を与えるとともに自らの一門に組み込むことによって吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられる。 当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きており(三河忩劇)、永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた。これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈った。永禄2年(1559年)に駿府の元康は7か条から定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしている。これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていた。
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