幼少期から出府するまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 03:31 UTC 版)
寛永2年(1625年)尾張藩剣術指南役柳生利厳(兵庫助)と、その室である島清興(左近)の末娘・珠との間に生まれる。幼少期は父の元を離れて姉の嫁ぎ先である御油の問屋・林五郎衛門のもとで育ち、母の実家の姓である島を名乗った。 10歳の時に父の住む名古屋に戻り剣術の修行を始める。厳包は毎日の稽古が終わった後も郎党を集め、自分を打ち込んだ者には褒章を与えると宣言して打ち合いに励んだ。時に腕の痛みで帯を結ぶこともできず母・珠に頼むこともあり、珠は「これでこそ剣術の上手になれるでしょう」と涙を流して厳包を手伝ったという。その才能は早くから表れ、弱冠13歳の時に父・利厳から習った口述をまとめた武芸書(通称『御秘書』)を残している。 寛永19年(1642年)18歳の頃、次期藩主・光友の剣術指南役を務める兄・利方の推薦を受け、光友に御目見を果たす。厳包が江戸に到着すると、その日の内に光友は厳包に柳生流と一刀流の剣士30名と試合するように命じ、厳包はことごとくこれを打ち破ったという。厳包はそのまま江戸詰め御通番となり、はじめ40石、その後間もなく加増を受けて70石を拝領した。
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