幼少期からヴァイマル共和国時代
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ブランデンブルク州ユーターボーク(ドイツ語版)に生まれる。父親がポツダムのニコライ教会オルガニストに就任したのちは、幼時よりピアノ、オルガンを学び、卓越した才能を示した。ベルリン音楽大学でロベルト・カーン(ドイツ語版)(作曲)とカール・ハインリヒ・バルト(ピアノ)に師事し、1917年にはピアノ組曲の作曲によりメンデルスゾーン賞を受賞、1918年にアルトゥル・ニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番で協演した。1920年にはシベリウスの招きで北欧を歴訪、スウェーデン王室よりLitteris et Artibus勲章を授与された。この年にはドイツ・グラモフォンにベートーヴェンのエコセーズWoO.86およびバガテル集Op.33-5を初録音している。1924年から1929年にはマックス・フォン・パウアー(ドイツ語版)の後任としてシュトゥットガルト音楽大学の学長を務めた後、1931年にはポツダムの大理石宮殿で、マックス・フォン・シリングス、オイゲン・ダルベール、エトヴィン・フィッシャー、エドゥアルト・エルトマン、エリー・ナイ、ゲオルク・クーレンカンプらと共同でサマークラスを開催した。1932年にはベルリンのプロイセン芸術協会の正会員となり、ドイツ楽壇の中心的役割を担うようになった。 1930年代にはベートーヴェンのピアノソナタ全集録音の2人目 の挑戦者として話題をあつめた。この録音は1920年代から1940年代まで続いたようである。これは完成がもくろまれていた。当時の彼の肩書は立派に「オペラ作曲家」であり、ピアノ演奏が副業であった。後年の印象と違い、1920年代の基本設定テンポは協奏曲においてもかなり速い。
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