冷泉為和とは? わかりやすく解説

冷泉為和


冷泉為和

読み方れいぜい ためかず

室町時代公卿歌人。上冷泉家本姓藤原法名静清。今川家と関係が深く今川為和とも称される冷泉為広の子権大納言民部卿出家の後は駿河下り武士歌道指南行った家集に『今川為和集』がある。又、多数歌書書写し、著に『題会庭訓』等。天文18年(1549)歿、64才。

冷泉為和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/29 10:27 UTC 版)

 
冷泉為和
時代 戦国時代
生誕 文明18年(1486年
死没 天文18年7月10日1549年8月3日
戒名 静清
官位 正二位権大納言
氏族 上冷泉家
父母 父:冷泉為広
兄弟 為和、応猷、尊俊、孝我、将軍家女房
為益明融[1]、広橋兼真[2]
テンプレートを表示

冷泉 為和(れいぜい ためかず)は、戦国時代公卿歌人権大納言冷泉為広の子。官位正二位・権大納言。上冷泉家7代当主。

経歴

駿河国能登国近江国等各地へ下向しているが、家領のあった地域を支配する今川氏との関係が深く、駿府での生活が最も長かった。今川氏より今川姓の使用を許されたとも伝えられる。今川氏の依頼により、相模国後北条氏甲斐国甲斐武田氏の許に滞在し、在地の歌壇を指導している。今川氏は天文6年(1537年)に武田氏との間に甲駿同盟を結び後北条氏とは敵対しているが(河東の乱)、これ以後為和は駿河・甲斐間を頻繁に往復するようになり、今川氏の外交使節的立場の人間であったと考えられている。

天文17年(1548年)には駿河で出家し、翌天文18年(1549年)同地において薨去。家督は子・為益が継いだ。

歌集に『為和卿集』がある。近年、その原本である『為和詠草』が冷泉家時雨亭叢書に収められ公刊された。

系譜

  • 父:冷泉為広(1450-1526)
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:冷泉為益(1516-1570)
    • 男子:明融(? - 1582)
    • 男子:広橋兼真 - 広橋兼秀の養子

脚注

  1. ^ 源氏物語の写本である明融本を書写したとされる
  2. ^ 広橋兼秀の養子。

出典

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「冷泉為和」の関連用語

冷泉為和のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



冷泉為和のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの冷泉為和 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS