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冷泉為景

読み方れいぜい ためかげ

江戸初期歌人公卿。為純の孫。藤原惺窩の男。為将の嗣となる。左中将正四位下慶安5年(1652)歿、41才。

冷泉為景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/06 15:39 UTC 版)

 
冷泉為景
時代 江戸時代前期
生誕 慶長17年4月26日1612年5月26日
死没 慶安5年3月15日1652年4月23日
官位 正四位下左近衛中将
主君 後光明天皇
氏族 下冷泉家
父母 父:藤原惺窩、養父:冷泉為将
為元正親町三条実昭
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冷泉 為景(れいぜい ためかげ)は、江戸時代前期の公家歌人官位正四位下左近衛中将下冷泉家8代当主。実の姪・貞子は後光明天皇典侍である事でも知られる。

経歴

高名な儒学者であった父の惺窩は、冷泉家(下冷泉家)冷泉為純の三男として生まれたが、下冷泉家の所領であった播磨国三木郡(美嚢郡)細川庄(現在の兵庫県三木市)で生まれた庶子であったため、下冷泉本家を継がなかった。為純と子の冷泉為勝が戦死したのちも、惺窩は弟の為将に下冷泉家を継がせた。

慶長17年(1612年)、為景は藤原惺窩の長男として誕生。父の影響もあり、幼い頃より歌を能くしたという。

正保4年(1647年)、叔父・冷泉為将の死去に伴い、勅命により下冷泉家を相続する。後光明天皇の侍講として活躍し、松永貞徳中院通村等の当時の一流の文人達とも交流があった。水戸藩2代藩主・徳川光圀とも交流を持ち、慶安4年(1651年)朝廷使節団の江戸下向に伴い対面を果たした。

慶安5年(1652年)、肺病を患い、辞世の句も読めぬまま亡くなった。享年41。

歌集に「冷泉為景朝臣歌集」がある。また、寛永16年(1639年)に筆写したという「春寝覚」が伝わっている。

系譜

脚注



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