光圀の人物像
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19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について「朝夕文武の道に励む向学の青年」と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。 光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。ラーメンも光圀が最初と言われてきたが、光圀が食した時期より200年以上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンのルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが平成29年(2017年)に判明した。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は将軍・綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれた。 オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲したりするなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けている。 鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだ。 朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録も残っている。。 当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。 『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えた。 父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事をしなかった。 綱吉期に大老の堀田正俊が稲葉正休に刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された。光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に対して強い不信を抱いたという。 『玄桐筆記』によれば、光圀が若い頃、知り合いの武士と出かけて帰りが遅くなった。歩き疲れて浅草あたりの仏堂で一休みしていると、連れの武士が「この堂の床下に非人どもが寝ているようだ。引っ張り出して、刀の試し斬りをしよう」と言った。光圀が「つまらないことを言うものではない。罪のない者を斬ることなどできない。それに、非人の中にも手強い者がいるかもしれない。どのような反撃を受けるか分からない。無用なことだ」と言うと、武士は光圀を「臆病風に吹かれたのか」と罵倒した。やむなく光圀は床下に潜り込み、非人を捕まえて引きずり出そうとした。非人は「自分も命が惜しいのです。無慈悲なことはやめてください」と哀願した。光圀は「自分も無慈悲な振る舞いだとは思うが、仕方がない。前世の因縁だと思って諦めてくれ」と言い、非人を引き出して斬り捨てた。光圀は連れの武士に「さてさて、むごいことをしてしまいました。あなたが、そんな人間とは知らずにこれまで付き合っていたことが悔やまれます。今後は、もう、お目にかかることもないでしょう」と言い、その日を境に絶交したという。 『盛衰記』によれば、「御手討被遊候迚壱人御貰被遊」(自分で斬ってみようと死罪人を一人頂戴し試し斬りをした)が、光圀の手が返って刀の峰(刀の背の部分)で斬ったため罪人は助かり、光圀は再度斬ろうとせず罪人を放免した。当時は大名が幕府から罪人を貰い受け、刀の切れ味を試すために生きたまま試し斬りにする風習があったが、光圀は最初から罪人の命を助けるつもりで貰い受けたようだという。 『盛衰記』によれば、水戸の領内で親を殺した男がいた。牢屋に入れられた男は「殺したのは自分の親だ。自分の考えに反対したので殺しただけだ。それを御上が問題にするのはおかしい。自分は年貢もきちんと納め、御上の法にも違反していない。いったい何の罪で牢に入らなければならないのか」と言った。それを聞いた光圀は「五常の道(仁義礼智信)さえ知らない(倫理観を持たない)者を殺すのは藩主の誤りである」と考え、男に論語の講釈を聞かせた。三年目に男は親殺しの罪の重さを知り、自ら死刑にするよう願い出た。光圀は男が自分の非を悔い改めたと聞き、初めて処刑を命じたという。 『桃源遺事』によれば、隠居した光圀は松前藩から献上され江戸屋敷で飼育していたタンチョウヅルを西山荘(現在の茨城県常陸太田市)に放したが、この鶴を長作という男が殺してしまった。長作は捕らえられ、激怒した光圀は「自ら成敗する」と言って長作を牢から引き出した。光圀は「憎い奴め。憎んでも憎み足らぬ」と言って長作を斬り捨てようとしたが、「この者を殺しても鶴は生き返らぬ。禽獣のために人を殺すわけにはいかない。許してやれ」と言い長作を追放した。さらに光圀は「このような者が無一文で放り出されれば、またどこかで悪事を働くしかないだろう。どこかに落ち着くまで銭と米飯を与えてやれ」と命じた。作家の仁科邦男は「生類憐みの令で徳川綱吉は犬殺しの犯人を極刑に処したが、光圀は愛する鶴を殺されても犯人を助命したばかりでなく、犯人の更生に手を貸した。光圀の方がよほど生類を憐れみ、人命を尊重する名君だった」と評している。
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