光圀の人物像とは? わかりやすく解説

光圀の人物像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 02:52 UTC 版)

徳川光圀」の記事における「光圀の人物像」の解説

19歳時には上京した侍読人見卜幽を通じて冷泉為景知り合い以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について「朝夕文武の道に励む向学青年」と話している。しかしながらその強い性格果断な本質年老いても変わることはなかった。 光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話残っている。日本の歴史上、最初に光圀食べたとされるものは、餃子チーズ牛乳酒、黒豆納豆がある。ラーメン光圀最初と言われてきたが、光圀食した時期より200年上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが平成29年2017年)に判明した肉食忌避されていたこの時代に、光圀将軍綱吉制定した生類憐れみの令無視して牛肉豚肉羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉献上したという俗説生まれたオランダ製靴下、すなわちメリヤス足袋日本最古)を使用したり、ワイン愛飲したりするなど南蛮の物に興味示し海外から朝鮮人参インコ取り寄せ育てている。蝦夷地探索のため黒人2人雇い入れそのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒学者朱舜水招聘し、教授受けている。 好物であり、カマハラスと皮を特に好んだ朱舜水献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニララッキョウネギニンニクハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘客人家臣らにふるまったとの記録残っている。。 当時人物として普通に衆道たしなみもあった。光圀政治例えて「男色ではなく女色のようにしなければならないと言った女色両方快楽を得るが男色片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛しかない政治女色のように為政者も民も両方快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。 『大日本史完成までには光圀死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀事業は後の水戸学呼ばれる歴史学形成つながり思想的影響与えた。 父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去する3日食事をしなかった。 綱吉期に大老堀田正俊稲葉正休刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された。光圀幕閣の前で「如何に稲葉殿中刃傷及んだとはいえ理由聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し幕閣に対して強い不信抱いたという。 『玄筆記によれば光圀若い頃知り合い武士と出かけて帰り遅くなった。歩き疲れて浅草あたりの仏堂一休みしていると、連れ武士が「この堂の床下非人どもが寝ているようだ引っ張り出して、刀の試し斬りをしよう」と言った光圀が「つまらないことを言うものではない。罪のない者を斬ることなどできない。それに、非人中にも手強い者がいるかもしれないどのような反撃を受けるか分からない無用なことだ」と言うと武士光圀を「臆病風吹かれたのか」と罵倒したやむなく光圀床下潜り込み非人捕まえて引きずり出そうとした。非人は「自分も命が惜しいのです。無慈悲なことはやめてください」と哀願した光圀は「自分無慈悲な振る舞いだとは思うが、仕方がない前世の因縁だと思って諦めてくれ」と言い非人引き出して斬り捨てた光圀連れ武士に「さてさて、むごいことをしてしまいました。あなたが、そんな人間とは知らずこれまで付き合っていたことが悔やまれます。今後は、もう、お目にかかるともないでしょうと言いその日を境に絶交したという。 『盛衰記によれば、「御手討被遊候迚壱人御貰被遊」(自分で斬ってみようと死罪人一人頂戴し試し斬りをした)が、光圀の手返って刀の峰(刀の背の部分)で斬ったため罪人助かり光圀再度斬ろうとせず罪人放免した当時大名幕府から罪人貰い受け、刀の切れ味を試すために生きたまま試し斬りにする風習があったが、光圀最初から罪人の命を助けるつもりで貰い受けたようだという。 『盛衰記によれば水戸領内で親を殺した男がいた。牢屋入れられた男は「殺したのは自分の親だ。自分の考え反対したので殺しただけだ。それを御上問題にするのはおかしい。自分年貢もきちんと納め御上の法にも違反していない。いったい何の罪で牢に入らなければならないのか」と言った。それを聞いた光圀は「五常の道(仁義礼智信)さえ知らない倫理観持たない)者を殺すのは藩主誤りである」と考え、男に論語講釈聞かせた三年目に男は親殺しの罪の重さ知り、自ら死刑にするよう願い出た光圀は男が自分の非を悔い改めた聞き初め処刑命じたという。 『桃源遺事によれば隠居した光圀松前藩から献上され江戸屋敷飼育していたタンチョウヅル西山荘現在の茨城県常陸太田市)に放したが、この長作という男が殺してしまった。長作捕らえられ激怒した光圀は「自ら成敗する」と言って長作を牢から引き出した光圀は「憎い奴め憎んで憎み足らぬと言って長作斬り捨てようとしたが、「この者を殺して生き返らぬ禽獣のために人を殺すわけにはいかない許してやれ」と言い長作追放した。さらに光圀は「このような者が無一文放り出されれば、またどこかで悪事を働くしかないだろう。どこかに落ち着くまで銭と米飯与えてやれ」と命じた作家仁科邦男は「生類憐みの令徳川綱吉犬殺し犯人極刑処したが、光圀愛す殺されても犯人助命たばかりでなく、犯人更生手を貸した光圀の方がよほど生類憐れみ人命尊重する名君だった」と評している。

※この「光圀の人物像」の解説は、「徳川光圀」の解説の一部です。
「光圀の人物像」を含む「徳川光圀」の記事については、「徳川光圀」の概要を参照ください。

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