光圀とその後の水戸藩とは? わかりやすく解説

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光圀とその後の水戸藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 02:52 UTC 版)

徳川光圀」の記事における「光圀とその後の水戸藩」の解説

大日本史』の編纂水戸藩多大な費用掛けた一説に藩の収入3分の1近くをこの事業注ぎ込んだといわれている(3分の1説の他、8万石説、3.5分の1説、3万石5万石・7万石説、10万石説などがあるが、いずれも根拠明確でない)。 水戸藩財政初代の父・頼房の藩主時代から苦しく光圀藩主時代後期には財政難表面化していた。光圀藩士俸禄借り上げ給料削減)を行っているが、大きな効果上がっていない。光圀養子・綱條も財政改革乗り出すが、水戸藩全体巻き込む大規模な一揆招き改革失敗するその後水戸藩にとって財政立て直し重要課題であり続け様々な改革幕府からの借金繰り返した一方で大日本史』の編纂光圀死後継続され、豊かとはいえない慢性的な逼迫財政をさらに苦しめたとされる。 また光圀は他の御三家対抗するため、当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め表高28万石だった水戸藩見かけ369千石にした。この石高次代の綱條の代に幕府認められることとなり、これが上記大日本史編纂事業あいまって水戸藩困窮要因となった光圀学芸振興は「水戸学」を生み出して後世大きな影響与えたが、その一方で財政の悪化招きひいては領民への負担重くなり、農民逃散絶えなかった。 一方光圀彰考館学者たちを優遇したことにより、水戸藩の士や領民から、学問によって立身・出世目指す者を他藩より多く出すことになる。低い身分出身であっても彰考館総裁となれば200石から300石の禄高とそれに見合う役職つけられた。光圀時代には他藩からの招聘者がほとんどを占めたが、那珂湊船手方という低い身分から14歳時光圀に認められ、後に総裁になった打越斎がいる。他藩から招聘者のなくなった後期彰考館員、後期水戸学学者は、ほとんどが下級武士武士外の身分から出た者たちであり、藤田幽谷会沢正志斎彰考館経て立身した典型的な例である。彼ら後期水戸学者にとって光圀絶大な人気があり、彼らの著作通じて光圀勤皇思想実態より大きく広められたとの見方もある。 水戸徳川家参勤交代行わず江戸定府しており、帰国申し出よるものであった(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主俗に「(天下の)副将軍」と呼ばれるうになる)。財政悪化もあり、中・後期藩主はほとんど帰国しなかった。光圀藩主時代11回帰国しており、歴代藩主の中では最多である。また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸に出るまでの5年と、隠居してから没するまでの10年水戸藩領内過ごした。そのため、水戸藩領内における関連した史跡は後の藩主比べる格段に多い。

※この「光圀とその後の水戸藩」の解説は、「徳川光圀」の解説の一部です。
「光圀とその後の水戸藩」を含む「徳川光圀」の記事については、「徳川光圀」の概要を参照ください。

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