義元の尾張侵攻の理由
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「桶狭間の戦い」の記事における「義元の尾張侵攻の理由」の解説
『甫庵信長記』以来、長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。幕末編纂の軍記ものの栗原信充の『重修真書太閤記』(嘉永5年:1852年~安政5年:1858年)にも、義元上洛の記述が見える。 歴史家高柳光壽がこれに疑問を示し、今川氏は織田氏と三河を巡り争い続けて尾張も視野に入れ、義元が、今川家家督を継承してから三河で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げて、ついに三河を占領できたので、更に尾張の支配地域を大きくするため侵攻したと、指摘した。 尾張は今川一門今川仲秋(尾張守護)の守護任国であり、末裔の今川那古野氏(室町幕府奉公衆の今川氏)が那古野城を構えていた。義元の末弟である今川氏豊は、この今川一門の家の血縁が絶えたので、送り込まれ家を継いだ。那古野城は謀略で織田に奪われ、そこで信長は生まれた。 義元の置かれていた状況は後の織田信長などとは大きく異なるし、信長以前には戦国大名が天下人を意識したり目指していない。義元の永禄2年(1559年)3月12日付の出陣準備の文書「戦場掟書」にも「上洛」の文字はない。信長は後に足利将軍家の足利義昭を奉じて京周辺と畿内の支配や地方大名の紛争を調停する室町幕府の伝統的な連合政権を形作った。信長本人が天下人となるのは義昭と紛争になり追放してからである。また、甲斐の武田信玄は、元亀年間に信長・徳川家康と敵対し、反信長勢力を迎合した将軍義昭に呼応して大規模な遠江・三河侵攻を行っている(西上作戦)。西上作戦は従来から上洛意図の有無が議論され、近年は前段階の駿河今川領国侵攻も含めて武田氏の軍事行動が中央の政治動向と連動したものであることが指摘されている。だが、信長以降である。 また、義元には、上洛するための京都の公家への事前の働きかけや、美濃国の斎藤家や近江国の六角家などへの折衝が無い。当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。領土紛争の一環としてこの二城を救出してそれを基に那古野城とその周辺まで奪取する構想があったとする。 久保田昌希は今川氏発給文書を分析して、東三河の密度の濃さに比べて、西三河は密度が薄いとして、永禄3年(1560年)の出陣は西三河の確保が目的とする。 埋め立てが進んだ現代に比べて当時は海が内陸に食い込んでおり、大高付近は船着き場でもあった。今川家は尾張での領土の確保・拡大だけでなく、東国と西国を結ぶ交易ルートであった伊勢湾の支配を巡り織田家と累代抗争していたとする研究も目立つ。 大石泰史は上洛説は成立し難いとした上で、非上洛説を以下の6つに分類している。 尾張攻撃説 伊勢・志摩制圧志向説 尾張方面領土拡張説 旧名古屋今川領奪還・回復説 鳴海城・大高城・沓掛城封鎖解除・確保志向説 三河・尾張国境の安定化説 その上で、大石は2・3・4は裏付けとなる史料が不足しているために安易に肯定は出来ず、1・5・6はいずれも関連づけが出来るために敢えて1つに絞る必要は無い、との見解を述べている。 また小林正信は義元の出兵を古河公方を推戴した三国同盟による室町幕府に対する挑戦とであったと捉え、上洛目的説を改めて提唱した。将軍・足利義輝を支持する長尾景虎が信長に続いて1559年に上洛したことにより牽制された義元の出兵は1年遅れ、迎撃準備を整えた信長により敗死。その後の景虎による関東出兵も、三国同盟に対する幕府の報復であると位置づけた。
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