義元の幼少時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:30 UTC 版)
雪斎が義元と初めて出会ったのは大永2年(1522年)頃のこととされる。はじめ雪斎は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗って、駿河富士山麓の善得院(現在の臨済寺)に入寺し、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めた。後に京都五山の建仁寺で修行をしていた。この頃から秀才として将来を嘱望されていたと言われる。この噂を聞いた主君の今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう要請されるが、一説にはこの要請を2度までも断ったと伝えられる。享禄3年(1530年)、建仁寺の師である常庵龍崇によって芳菊丸(義元)が得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改める。2人はさらなる修行のため、大永5年(1525年)と天文2年(1533年)の2度にわたって上洛し、善得院から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った。この頃に承芳(義元)は道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗った。 今川家では大永6年(1526年)に氏親が死去し、氏親の葬儀の頃、義元は富士郡の善得寺にいた。このことは氏親が今川領国としては不安定な河東の安定化を図っており、河東に対して重要な位置を占める庵原氏出身の雪斎を義元の補佐役、養育係として任せていたのである。天文4年(1535年)、善得寺の住持であった琴渓承舜の7回忌法要のため駿河に戻り、再び善得寺に入る。
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