義元の実母に関する新説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:45 UTC 版)
元々、今川義元の実母に関しては寿桂尼であることには特段疑問が持たれなかった。しかし、天文20年以前に編纂されたと推定できる『蠧簡集残篇』所収「今川系図」に花蔵(玄広恵探)を二男と明記されていること、同系図並びに江戸時代初期の系譜に今川氏豊・象耳泉奘の名前はないことから、氏親の男子は4人で、長男が氏輝、次男が恵探と考えられるようになった。この説に基づいた場合の残された彦五郎と義元の兄弟関係については、彦五郎を永正14年(1517年)頃に生まれた三男(ただし、側室の子である恵探よりも日付は遅い)と考えて義元を四男とする黒田基樹の説と彦五郎を大永2年(1522年)頃に生まれた四男と考えて義元を三男とする大石泰史の説に分かれている。 更に黒田は龍泉院(瀬名貞綱室)を『言継卿記』弘治2年11月28日条の「瀬名殿女中(中略)太守の姉、中御門女中妹」とする記述から彼女を義元の姉と確定した上で、寿桂尼が玄広恵探が誕生した永正14年(1517年)以降の足かけ3年間に彦五郎・瑞渓院・龍泉院・義元と4名の子を産むことが可能なのか?と疑問を呈し、誕生後の扱いから寿桂尼の実子とみなせる彦五郎、『言継卿記』弘治2年10月2日条に「大方(寿桂尼)の孫」と記されている北条氏規(当時、今川氏の人質となっていた)の生母である瑞渓院も実子とみて間違いなく、同弘治3年2月2日条に「大方女」と書かれた「瀬名殿女中」も龍泉院のことを指すため、残された義元は実は庶出で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組を結んで実子扱いにされたのではないか、という説を唱えた(浅倉直美は義元だけではなく龍泉院も側室の子が寿桂尼の養子になったと解する余地があるとする)。大石も彦五郎の誕生時期については見解は異なるものの、彦五郎の名乗りは曾祖父にあたる今川範忠(兄・五郎範豊の早世で家督を継いだ)と同じであるため寿桂尼の子と考えてよいとした上で、彦五郎の兄である義元が寺に入れられたのは彼が恵探と同じく庶出であったからではないか、という説を唱えた。ただし、義元の母が側室の可能性を疑わせるものは『群書系図』所収の「今川系図」に氏輝・恵探・義元の順に並べられて、氏輝の欄に「母中御門大納言宣胤女(=寿桂尼)」、恵探の欄に「母福嶋安房守女」、義元の欄に「母同」と記されて恵探と義元が同母兄弟と解釈する余地を残している部分と『高白斎記』天文5年月24日(氏輝の死後、花倉の乱の最中)の記事に寿桂尼を「善徳寺(=義元)ノ老母」ではなく「氏照(=氏輝)ノ老母」と表記している部分に義元が寿桂尼が生んだ子ではない可能性を示す部分のみである。また、義元が寿桂尼の子ではないとした場合の生母の実像について、黒田は京都からの食客の娘、大石は福島氏の娘(ただし、恵探の母は福島氏の庶流出身で、義元の母は同氏の嫡流もしくはそれに近い家の出身として、同じ一族内でも嫡庶による身分差があったとする)、浅倉は朝比奈氏の娘(朝比奈泰煕の娘か)と想定しており、意見が一致している訳ではなく、現時点では可能性の域にとどまっている。
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