西洋式戦術との衝突
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幕末になり、江戸幕府が長州征討(1864 - 1866年)に出た際、長州藩側は西洋式戦術で対応している(後述)。 高杉晋作は吉田松陰の『西洋歩兵論』の影響を受け、1863年に奇兵隊を組織し、幕軍に対し、西洋式の編成と戦術を用いている(『軍師日本史人物列伝』 日本文芸社 2013年 p.8)。奇兵隊は「武士と庶民の混合部隊」として強調されるが、庶民の割合は約30パーセントであり(全国歴史教育研究協議会編 『日本史Ⓑ用語集』 山川出版社 16刷1998年(1刷1995年) p.172)、決して多い訳ではない。 大村益次郎も洋式兵術の原書を読んで学んでおり(磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 2018年 p.127)、フランス式軍制を用いた(『日本史Ⓑ用語集』 山川出版社 16刷1998年 p.176.「歩兵操典」も参照)。第二次長州征討時、幕府側は戦国期以来の井伊の赤備えで交戦したが敗れており、彦根兵側の証言として、「変な兵だった。紙屑拾いみたいな格好をして、向こう側からバラバラやって来たと思うと、背後に回り込まれていた」とあり(磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 p.127)、笛袖姿の密集体形で、時に応じて鐘太鼓を打ち鳴らしながら進軍し、散兵戦術によって、敵の横や背後から射撃した(磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 p.127)。『西洋歩兵論』にも「短兵隊、あるいは集まり、あるいは散り、(中略)敵の横を突き、敵の後を破る」とあり、戦場でこれを実践したといえる。統制が取れた柔軟な兵の集散が、伝統的な軍団編成の井伊の赤備えには不可解に映った証言ともいえる。ただし勝因は銃器兵装差による最大射程の差からくるアウトレンジ戦法による(詳細は「赤備え#井伊の赤備え」を参照)。 なお幕府側も長州征伐以前から西洋式軍制は採用しており、文久の改革による幕政改革の一環として、洋式陸軍を設置し(幕府陸軍)、歩兵・騎兵・砲兵から成る三兵戦術を導入、これを陸軍奉行が統轄した(『詳説日本史図録』 山川出版社第5版 2011年 p.197)ため、部分的には西洋戦術と西洋戦術による戦いと言える。長州征伐敗退後には顧問としてフランス人を用いているなど(幕府陸軍を参照)、この時期はフランスの影響がある。
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