安政元年より安政6年まで
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「海保帆平」の記事における「安政元年より安政6年まで」の解説
安政元年(1854年)江戸馬廻組として出府。江戸へ出て間もなく本郷の弓町に振武館という道場を持つことを認められた。後年安中藩の剣術師範となり剣名を轟かせた根岸忠蔵はここの塾頭として修練を積んだ。 安政4年(1857年)には土佐藩の江戸藩邸で行われた武術試合に選ばれて出場している。 ただ、帆平にとって痛恨の出来事は、安政2年(1855年)10月の安政の大地震でよき理解者だった戸田忠敞が藤田東湖とともに圧死してしまったことである。斉昭にとっても水戸藩全体にとっても両田の死は大変な損失だった。 この時期帆平は水戸にいる学者豊田天功、小太郎の親子に折に触れて便りし政治情勢を伝え、時事を論じている。これが仕事として行われたものであるかどうか詳らかでないが、天功という学者は海外事情の摂取に非常に積極的な学者だったからそれへの協力の意味があると思う。そこに一介の剣客ではない帆平を見ることができる[要出典]。 安政5年(1858年)4月に井伊直弼が大老に就任し、将軍継嗣問題に日米修好通商条約問題が絡み合って、江戸・京都の政治情勢は混とんとしてきた。とりわけ水戸藩をめぐる情勢はますます厳しくなった。 安政5年(1858年)秋口から安政の大獄が始まるが、帆平にもその影響が及び、安政6年(1859年)11月、幕府の指示で、蟄居の刑に処せられた。以来水戸において3年近い蟄居生活を送る。罰の理由は詳らかでない。桜田門外の変の結果という説もあるが処罰はその前の年である。「浪士を引き連れて井伊家に斬り込む」との噂が流れたために危険人物として処罰の対象になったらしい。
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