造幣局設置まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 14:41 UTC 版)
幕末期、度重なる金銀貨の改鋳から多種多様の貨幣が額面通りならず、それぞれ実質価値に基づく相場で取引され、さらに財政難に苦しむ各藩による偽造貨幣の氾濫から幣制は混乱を極めていた。このような中、明治新政府は国際的に信頼を得ることのできる貨幣を発行する必要性に迫られ、さらに外国人大使からの、金銀地金の持込による本位貨幣の自由鋳造を行う造幣局の設立の要望が強かった。明治元年(1868年)、新政府は香港から造幣機械を購入し、キンドル、ガウランドら英国人技師を招いて西洋式貨幣を製造すべく、造幣局の設立の準備を開始した。 さらに慶応4年(1868年)閏4月、旧金座において幕府発行の旧貨幣の分析が行われた結果、含有金量および銀量に基づいて、旧貨幣の新貨幣との交換比率が定められ、回収および改鋳が進められた。また、当時流通していた旧金銀銭貨の流通高が調査され、それは明治8年(1875年)に大蔵省が刊行した『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』に見ることができる。 明治2年(1869年)当時一世を風靡し、事実上の国際決済通貨として世界的に広く流通していたメキシコ銀(8レアル銀貨)に基づき、これと同質量の本位銀貨を発行し、金貨および銅貨は補助貨幣とする銀本位制の採択の意見が大勢を占めたが、当時財政研究のため米国に渡っていた伊藤博文は、世界の大勢から金本位制を採るべきと強く主張し金本位制が採択され、メキシコ銀と同質量の一圓銀貨は貿易決済用銀貨として発行されることになった。両から圓(円)への切り替えは等価とされたため比較的円滑なものであり、当時金貨の流通の大半を占めていた万延二分判2枚分の含有金量と含有銀量の合計が、メキシコ銀1ドルおよび米国の1ドル金貨の含有金量の実質価値に近く、1ドル金貨に近似する質量の1圓金貨を発行するに至った 。 この決定を受け、造幣局では民間日本人、外国人および政府より納入される金および銀地金(旧貨幣、外国貨幣、地金)の量に応じて、金貨および銀貨が製造発行された。また、造幣局において規定枚数毎の製造貨幣から抜き取られる供試貨幣は、大蔵大臣の下で各年度毎に行われる貨幣大試験に供され、量目および品位が規定通りであることが確認されることになった。
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